安房直子的世界

童話作家、安房直子さんをめぐるエッセイを書いていきます。

物語の食卓 秋 第二話 ゆうしょくかいのごちそう

このブログは、
アイダミホコさんのブログ
ネムリ堂のブログ
の、童話作家  安房直子さんの作品に登場するお料理をめぐる、安房直子さん生誕80周年のコラボ企画です。
 
安房直子さん(1943~1993)は、日本女子大学在学中、北欧文学者、山室静氏に師事、同人誌『海賊』に参加、「さんしょっ子」で、第3回日本児童文学者協会新人賞を受賞、その後もサンケイ児童出版文化賞小学館文学賞野間児童文芸賞新美南吉児童文学賞、ひろすけ童話賞、赤い鳥文学賞特別賞を受賞。「きつねの窓」「鳥」「初雪のふる日」などが、小・中学校の教科書に採用されています。初期の幻想的で謎めいた作品から、動物たちが活躍する晩年のあたたかなお話まで、没後30年経った今なお、新しい読者を獲得し続けています。代表的な著作は、偕成社からの選集『安房直子コレクション』全7巻、瑞雲舎『夢の果て』など。
 
豊島区東長崎の雑貨店、Planethandさんの安房直子さん企画展、幻の市でご一緒したご縁で、このコラボ企画は産まれました。 http://planet-hand.com
 
アイダさんに、安房さんのお料理を再現していただき、スタイリッシュでお洒落なお写真におさめていただくという、贅沢な企画です。その写真に、アイダさん、ネムリ堂双方が、思い思いの短い文章をそえたブログを同時公開、季節ごとに小さな冊子にまとめる、という計画をしています。一年間を通して、15の食卓の連載を予定しています。どうぞ、おたのしみに!
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料理・スタイリング・撮影:アイダミホコ

「きつねのゆうしょくかい」のごちそうは、こどものときからの憧れでした。とりのまるやきの美味しそうなこと!! きのこのサラダってどんな味なんだろう、と幼い頭を思いめぐらせましたし、焼きりんごというのも、ロマンチックだと思いました。

当時はなにも疑問を感じませんでしたが、「コーヒー」セットなのに、「紅茶」を振る舞うことにしたのは、今読むとふしぎに思えます。作品発表当時は、コーヒーを自宅で飲む習慣はなかったのかもしれませんね。

 

この「きつねのゆうしょくかい」は、安房さんのごくごく初期の作品で、1969年発表です。1971年発表の「きつねの窓」もそうなのですが、人間と交流するのに、きつねたちは、人間に「化け」て、交流を持とうとします。しかし、後年、「きつね山の赤い花」(1984年)や、「べにばらホテルのお客」(1987年)では、きつねはきつねの姿のまま、人間と遊び、人間の男性と結ばれます。そんな風に、おおらかな関係性へと、晩年にいくに従って、作風が変化していくのは面白いなと思います。

 

「きつねのゆうしょくかい」で、もうひとつ面白いな、と思った点は、幼年童話でありがちな「母―子」という関係性でなく、「父―娘」での登場だという点です。そして、「おかあさん」が、なぜだか不在なのです。

通常、幼年童話では、「母」の存在が大きくて、あまりお父さんだけでは登場しませんし、ましてや動物の親子関係では、母親がメインで、父親はほぼ不在なのではないか、と思ったのです。それで、少し調べてみましたら、きつねは、父親も子育てに積極的に協力する動物だということがわかりました。日本の哺乳類で、父親が育児に参加するのは、人間ときつねとたぬき、その三種だけだそうなのです。面白いですね。

しかし、それを割り引いても、この「きつねのゆうしょくかい」には、なぜ「おかあさん」が登場しないのか、とてもふしぎです。作中には、おかあさんが亡くなったとも、はたまた出て行ってしまった、とも、その説明はひとこともありません。ただただ、おとうさんと、幼いむすめのきつねがいるだけの、ひとり親家庭なのです。

 

安房作品における「母の不在」は、この「きつねのゆうしょくかい」だけではありません。「熊の火」の、熊のおやじさんにはむすめがいますが、おやじさんの奥さんについての説明はありません。「まほうをかけられた舌」の洋吉は、父親と他界して店を継ぎますが、母親については、なぜかひとことも言及がありません。

三日月村の黒猫」と「エプロンをかけためんどり」は、父子家庭で、おかあさんは亡くなっています。「海の口笛」も、父子家庭です。「花豆の煮えるまで」の小夜の家庭も、おばあさんはいますが、おかあさんは出て行ってしまっています。

他にも、おかあさんの存在の希薄な作品がいくつもあります。「あるジャム屋の話」の鹿の娘は、父親鹿をジャム屋の若者に引き合わせますが、母親鹿は出てきません。「夕日の国」の「ぼく」には、スポーツ店を営むおとうさんは登場しますが、おかあさんについての言及はありません。(代わりに、咲子の「おかあさん」が重要なキーパーソンとして登場します)

「長い灰色のスカート」では、回想の中で「おかあさん」は登場しますが、ぜんたい、母の存在は希薄で、その代わり負の母性とも言うべき「長い灰色のスカートの女」が圧倒的な存在感で迫ってきます。ラスト、「私」の頭をなぜて「もうけして山に行くまい」と呟くのは父親だけで、母は不在のままです。(また、作中のヒグマの親子も、「父子」で、母熊はでてきません)

 

「母の不在」は、安房作品にきわだつ特徴のひとつであると感じます。「丘の上の小さな家」のかなちゃんが家に帰宅すると、おかあさんが亡くなっています。「青い糸」の千代は捨て子で、かあさんがいません。周一のおかあさんは、周一を荷物のように預けたまま、よそへお嫁に行ってしまいます。「天窓のある家」の「ぼく」は三か月前に母を亡くしています。「海の雪」も「星のおはじき」も、母親は不在です。「きつねの窓」も、「北風のわすれたハンカチ」も、母親は人間にダーンと、やられてしまっています。「ころころだにのちびねずみ」のおかあさんは、ちびねずみを置いて家を出て行ってしまっています。

単行本未収録作品で、ごくごく初期の作品に、とても気になる作品があります。1959年発表の「赤い花白い花」です。主人公の少年は、いなくなったおかあさんを探しに行くのですが、ラスト、玄関にかあさんのげたをみつけ、かあさんが帰ったことを知る、というものです。かあさんは帰ってきた、という結末ですが、なぜ、母親が家を不在にしていたのかは、はっきり語られないままです。下の兄弟の出産のために家をあけていたのか、はたまた、家出をしていたのか…??? 非常にひっかかる作品です。

 

「病気のおかあさん」というモチーフも、安房作品によく登場します。「だれも知らない時間」のさち子のおかあさんも、良太のおかあさんも、ともに病気で死別しています。「海からの贈りもの」のかな子のおかあさん、「冬吉と熊のものがたり」の冬吉のおかあさん、「さんしょっ子」の三太郎のおかあさん、「あざみ野」の清作のおかあさん、みな、病気がちです。「しいちゃんと赤い毛糸」のしいちゃんのおかあさんも病院に入院しています。

このような安房作品の傾向から、なにを結論としたものか…?? 安房さんが養女であったことと結びつけるだけでは、いささか安易な推論となってしまいそうです。こうした設定の奥には、果たして何が隠されているのか。正直、納得のいく結論は出せないままでした。

ただ、ひとつだけいえることは、こうした、どこか不安定な家族関係には、心ゆすぶられるものがあり、安房作品の魅力を形づくるパーツのひとつであるのではないか、という点です。

今回は、「母の不在」…そういった傾向が安房作品にはある、という指摘だけで、筆を置かせていただきたいと思います。読んでくださった皆さまは、どんな感想をもたれるでしょうか。

 

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