みゆきが牡鹿ののどの渇きを心配し、山ブドウのお酒を分け合ったことで、牡鹿は天の鹿になることができました。そして、牡鹿と分け合った、あたたかなきのこの雑炊。牡鹿と分け合った、みずみずしい大きな金色の梨。
「よもつへぐい」という言葉がありますが、異界の食物を食べたみゆきは、現世に戻ることはなく、天の鹿とともに、天に昇ります。
花嫁のための白い桔梗の花束は、同時にまっ白な死に装束でもあるのでしょうか。
今回、アイダさんには、そのきのこの雑炊を再現いただきました。原作通りに、まつたけと栗、大根の入った、なんとも贅沢で美味しそうな雑炊です。
自分のキモを食べた娘を探している牡鹿。
鹿のキモは、『日本俗信辞典 動物編』によれば、腹痛の薬だといいます。キモは、「肝心」という言葉の「肝」の部分、ハートと同一視されるものでありますから、牝鹿の声を模した鹿笛に誘われ、恋の気持ちのまま撃ちとられた牡鹿のキモを食べたみゆきが、牡鹿と結ばれることは、ある意味必然であるのかもしれません。
鹿と人間の娘が結ばれる異類婚姻譚であり、異類婿の系譜につらなる作品ですが、日本の昔話の異類婿である、「猿婿」や「蛇婿」のように、婿が排除されるかたちをとることの多い日本のむかし話とは、一線を画す物語となっています。
この作品は、真実の愛をつらぬく物語でありながら、天の鹿との魂の結婚は、そのまま生身の体を捨て、かけがえのない肉親との別れをも意味するものです。だからこそ、そのことこそが、この美しい物語を、しんとしたかなしみでいろどり、より一層、心に響きつづけるのです。
安房さんは、エッセイ「きつねと私」で、追われるものと追うものとのかなしいかかわりを描きたい、と書いています。猟師が登場するのは、そのせいであると。「天の鹿」も、そんなかなしみに満ちた作品です。
安房作品には、猟師が印象的に登場します。「天の鹿」をはじめ、「鶴の家」の主人公は猟師です。そして「野ばらの帽子」、「月へ行くはしご」「しろいしろいえりまき」などにも猟師は登場します。代表作「きつねの窓」の主人公も、きつね猟をするべく銃を持ち、その大切な銃を、染めた指の対価とします。
「天の鹿」のラストシーン、猟師である父親の清十さんは、空に、鹿の形をしたおどろくほどのたくさんの白い雲がいっせいにわきあがるのを目撃します。その群れの中に、ひとりの娘のかたちを見、その姿はたちまち牝鹿のかたちにかわり、やがてほかの雲のかげにかくれてみえなくなります。清十さんの、「おう、おう」と、わけのわからぬ声をはりあげてどこまでも走ってゆく姿には、胸がいたくなります。牡鹿とみゆきの真実の愛の裏側には、このような身を切られるような悲しい肉親との別れがあるのです。
この作品は、鹿と娘の婚姻を描いていますが、私は、遠野に伝わる伝説である白馬と娘の婚姻譚、「オシラサマ」を連想しました。
昔、ある村に、美しい娘がおり、父親と二人暮らしでした。娘は雪のように白い若駒を大事しており、いつしか離れられぬ仲になりました。父親は若駒を憎むようになり、若駒を裏山の桑の木につるして殺します。娘は泣き崩れ、死んでしまった馬の首にだきつき、泣きに泣きました。あまり泣くものだから、父親はまた憎らしくなり、斧で馬の首を切り落としました。すると、馬の首は娘を乗せたまま、青い空へと消えて行きました。オシラサマとは、この時からの神さまで、馬をつりさげた桑の木の枝でその神の像をつくりました。ひとつは娘で、もうひとつは馬頭をかたどりました・・・。
蚕と馬と娘の物語のバリエーションは、岩手や福島、信州にも伝わっています。「オシラサマ」の物語の源流は、中国にあり、古くは四世紀に成立した『捜神記』にも、類話が見られます。
どうでしょうか。父親と娘。娘と馬の魂の結びつき。父親による馬の殺戮。空へ昇って行く、娘と馬。「馬」を「鹿」に置き換えると、不思議なほど、「天の鹿」の物語のキーワードと一致してこないでしょうか。
遠野物語を愛読していた安房さんですから、「オシラサマ」は当然ご存じだったはずです。「天の鹿」の根底には、父親に殺された馬とともに天に昇って行く美しい娘の物語「オシラサマ」のイメージが潜んでいるように思うのです。
遠野物語といえば、代表的なお話として、神隠し譚があります。「天の鹿」も、清十さんの側から見れば、大事な娘が神隠しにあった話です。
「長い灰色のスカート」、「沼のほとり」をはじめとして、「だれにも見えないベランダ」「海の口笛」「火影の夢」「銀のくじゃく」などの、主人公が異世界へ旅立ち、現世から姿を消すさまは、現代の神隠しそのものです。「丘の上の小さな家」のかなちゃんも、かなちゃんのお母さんにとっては、娘が神隠しにあった状態、「花豆の煮えるまで」の小夜の母さんも、山で姿を消します。「初雪のふる日」も、うさぎにさらわれたままだったら、少女は神隠しにあった状態だったといえるでしょう。
日本人は、ねずみ浄土や、竜宮、天狗による神隠し、など、神隠しに、さまざまな異界を想像してきましたが、本来「神隠し」、とされている事件は、現実にはひとさらいや人身売買、或いは事情によって自ら失踪している場合、思わぬ事故で死亡していたり、と、過酷な状況にある場合が多いようです。しかし、人が忽然と消え去る現象には、どこか、遥かなる国への甘美さを感じさせられ、不安の感情とともに、「あこがれ」をかきたてられるものがあります。
それは、私自身が、現実において、居心地の悪さを感じつづけていること、「ここではないどこか」、にあこがれる気持ちを捨てきれないことと無関係ではないのかもしれません。
そんな私だからこそ、神隠し、異界を、あざやかに描く安房作品に、強烈に惹かれてしまうのかもしれません。
「鹿の市」についてのアイダミホコさんの考察はこちら↓