安房直子的世界

童話作家、安房直子さんをめぐるエッセイを書いていきます。

童話作家 安房直子さんについておしゃべり(3)「ハンカチの上の花畑」

(3)「ハンカチの上の花畑」

 

発言者・ネムリ堂

・gentle finger window

・アロマアクセサリー&香りと文学m.aida

・ymst

・藤井実幸

・Planethand

・秋元紀子

 

ネムリ堂 こんにちは。第三回目の今日は「ハンカチの上の花畑」をとりあげようと思っています。こちらは、安房直子作品ランキングで第三位になった作品です。これは、一九七三年あかね書房で刊行、安房さんが二十九歳のとき、書下ろしで刊行されました。絵は、岩淵慶造さんです。こちらのご本は、全国学図書館協議会選定の必読図書として、そういうマークが貼ってありまして、よく図書館などには置いてあるご本です。今読めるテクストとしましては、

あかね書房岩淵慶造さん・絵)

講談社文庫(司修さん・絵)→kindle版あり

偕成社安房直子コレクション』四巻

に収録されています。

 「ハンカチの上の花畑」についてなんですが、安房直子さんは「『ハンカチの上の花畑』のこと」というエッセイを書かれています。こちらは一九八五年二月、『子どもと読書』という雑誌に掲載されました。そのなかで、「ハンカチの上の花畑」は、はじめての書下ろしの仕事であるということ、これまで二十枚程度の短編しか書いたことが無かったところに百二十枚の長編を任されたということ、そして、当時、ヨーグルトやパン作りに熱中していて、この小さな菌たちを擬人化したら小人になるのでは?と思ったと、書いておられます。

で、あかね書房の当時の編集長は、童話作家山下明生さんでして、山下明生さんと打ち合わせをしながらこの作品を作られたそうです。小人の国へ行った主人公が、戻ってくるのがよいか、そのまま行ったきりにするのか、さんざん迷ったとのことです。安房さんの作品は、「戻ってこない」作品が大変多いのですけれども、これは、「戻ってくる」作品なんですね。児童文学者の瀬田貞二さんが、子どもの喜ぶお話には「行って帰る」お話という、構造上のパターンがある、というようなことをおっしゃっています。それを「行きて帰りし物語」と名付けています。この「行きて帰りし物語」というのは、トールキンの『ホビットの冒険』の中で、ビルボが自らの冒険を書き綴った本の題名からきています。英語では、『The Hobbit,or there and Back Again』という題名ですね。こちらを「行きて帰りし物語」と瀬田さんは訳されているのですね。で、そのような「行きて帰りし物語」の中に、「ハンカチの上の花畑」も入っているのでは、と思います。簡単にご紹介させていただきました。

では、今回、「ハンカチの上の花畑」をとりあげるにあたって、以前『安房直子評論』という安房直子さんについての評論集をネムリ堂から出させていただいたのですが、そちらで、藤井実幸さんにも、文章を書いていただきました。藤井さん、お願いいたします。

 

藤井実幸 こんばんは。藤井実幸です。以前『安房直子評論』に載せていただいたものは、個人的に友人宛に書いたもので、皆さまに読んでいただく前提で書いたものではないので、その点はご了承くださいね。

 

ネムリ堂 いえいえ、そんな。読み応えがありました。

 

藤井実幸 今回のお話をいただいて、「ハンカチの上の花畑」の再読もしてみました。私は関西人なので(笑)、これいったいどれくらいの金額なんだろうとお金のことが気になって、『戦後値段史年表』(週刊朝日 編 朝日文庫)を紐解いて、お酒の値段とかを、ちょっと、調べてみたんですね。

 下世話な話をして申し訳ないのですけれど、月桂冠の一升瓶が、二千百円くらいなんですよ。

 

ネムリ堂 一九七三年当時ということですか?

 

藤井実幸 今現在です。この「ハンカチの上の花畑」て安房直子さんの作品にしては珍しく、舞台の、作中の年代が判るんですね。終戦から二十年ほどというのが書かれているので、珍しいお話だな、と思ったんですよ。ほかの作品だと、出て来るキーワードとか、道具とかで、だいたいの大雑把な年代はわかるのですけれど、すごく確定された年代なんですね。

安房先生自身が日常で目にされている風景の中で紡がれたのかな、と思ったのです。「きつねの窓」ですと、山の中とは思いますけど、実際に一般の人は猟師の行くような山の中までは入らないし、どうしても想像の中でしか語れないですけど、この「ハンカチの上の花畑」だと、安房先生がリアルに生活されていた町の中……

 

ネムリ堂 市電が通っていたり……

 

藤井実幸 町の風景がちゃんと……ビルがあって、その中で潰れかけた酒屋の倉庫があって、とか、すごいリアルだなと思ったんですよ、描写が。そこでお酒の値段というのがすごい気になっちゃって。(笑) 調べたら、料理屋さんが買い取るのが、ひと瓶五千円なんですね。当時、昭和四十五年で、一升瓶のお値段が、上等、中等、並、とあるのですけれど上級の一升瓶が一本、千二百円くらいなんですよ。

 

ネムリ堂 えっ! そんなに安いのですか……!

 

藤井実幸 それを、一本五千円で売っているから、今の値段に換算したら、たぶん一万円くらいで。一升瓶一万円くらいで売っているのですよ。ちょっと、すごい欲を出しているな、と思って。で、あのご夫婦が住んでいるのって、アパートの一間じゃないですか。そこで別に贅沢がしたいなんていう風でもなくふたりは暮らしていたのに、だんだん高額な……一日一本渡したら、一万円来る、働かなくても一万円が来る。月に換算したら、三十万、来るわけじゃないですか。

 

ネムリ堂 ほんとですね。三十万……。すごいな。

 

藤井実幸 結構な額で。それで、えみ子さんが欲深くなっていくのが、私は、リアルだなと思っていて、このお話がとても怖いんですね。出て来る人物が他の作品に比べて、より人間ぽいというか、リアルな人間に近い。欲望が大きくなっていって、最初は小人と仲良くしたいとか、小人に自分を見てほしい、とかだったのに、だんだん、だんだん、話がずれていって、お金儲けの話になっていって、小人のことを最後には「私たちのモノになったのね」みたいな言い方をしているので、それがすっごい怖くて。安房さんの作品の中では、逆に、異質な話だなと、捉えていて。

 

ネムリ堂 そうですね。そんな風に欲望がむき出しになっている話は、ほかの話にはあまり無いですね。

 

藤井実幸 ほかの登場人物って、割とおだやかな……

 

ネムリ堂 むしろ欲がなくて……

 

藤井実幸 えみ子さんももともとは穏やかな、そんなにお金持ちになりたい、とか、いう感じの人じゃなかったと思うんですよ。気のいい……お酒を友達とか知り合いに分けて。ただ、お金がそこに入ってきたことで、どんどんどんどん、こう、変わっていくなあっていう。

 あと、おばあさんが言う「悪いことが起こる」っていうのも、いったん大きな形でお金を手に入れる、楽をして手に入れたことを覚えた人が、元の世界に戻っても、しあわせになれるかな、と思ったら、まあ、たぶん、だめだろう、っていう。ご夫婦仲も、この先うまくいくかなって、私は考えてしまうんですね。

 

ネムリ堂 心配になっちゃいますね、せっかく戻ってきてもそのあとどうなるのかなって。

 

藤井実幸 「小人がいなくなったこと」「お酒を売れなくなったこと」で、すごい不満をためてしまうんじゃないかなと思って、これが「不幸」な話なんじゃないかな、と思って。おばあさんの言う、「悪いことが起こるよ」っていうアレかな、っていう風に読みました。他の皆さんがどういう風に読まれたのかな、っていうのは、気になっています。

 

ネムリ堂 そうですね、ありがとうございました。すごく面白いです。お金の話ですよね。

 

藤井実幸 すみません……関西人で(笑)

 

ネムリ堂 私も、漠然と五千円って言っていたけど、それが、こんなに高額なお酒だとまでは思っていなかったので。びっくりしました。そうですか……。

 gentle finger windowさん、小学校の時、お読みになったと聞いていたんですけれども、いかがでした。

 

gentle finger window 私にとっての初めての安房さんの作品がこの「ハンカチの上の花畑」でした。確か、小学校の推薦図書にあがっていて、たまたま図書館で借りて。それまで、平和な、というか、普通の童話しか読んだことが無かったからかもしれないですけれど、最初から最後までドキドキはらはらするような作品ははじめてだった、というのもあって、もう一気に安房さんの物語にのめり込んで行ったのですね。

 

ネムリ堂 じゃあ、きっかけだったのですね、安房さんにはまる。

 

gentle finger window なんかこう、最初の出だしのところから、潰れてしまったはずの酒屋の古い酒倉に郵便を届けに行って、なんか、おばあさんが暗い酒倉からでてくる……そこから、わ、不気味、怖い、っていう。そこからあやしげな酒の壺、渡されて、破っちゃいけないよ、と言われたのに、約束を破って、お嫁さんに菊酒のつくり方話して、お金儲けして。いなくなったと思っていたきく屋さんが戻ってきて、逃げなきゃ!ってそこから、どんどんどんどん、自分も良夫さんえみ子さん夫婦になったように、物語にのめりこんでいく……。自分も逃げなきゃ、みたいな感じでなんか、ものすごく物語の世界に入り込める、安房さんの作品てそういうの多いと思うのですが、その中でもとくに、ドキドキ感を味わえる、スリルを味わえる物語な気がしますね。そこが、この「ハンカチの上の花畑」の魅力な気がします。

 

ネムリ堂 そうですね。一緒にドキドキしながらね……。

 なんかですね、安房直子さんに関する評論を書かれたかたがいらっしゃるのですけれど、はじめに、郵便物がきっかけって、先ほどgentle finger windowさん、おっしゃったじゃないですか。その「郵便物」が、二通ある、っていうふうに言ってるかたがいらしたんですよ。ひとつは、良夫さんが配達した郵便物、もうひとつがダイレクトメールとして、家の広告が舞い込んでくる。そのふたつがきっかけとなって、物語が進んでいくっていうような書き方をしたかたがおられて。矢野一恵さんていうかたで、『目白兒童文学』三十・三十一号(一九九四年発行)「安房直子特集」のときに掲載されていたものなんですが。「ハンカチの上の花畑」における二つの手紙、というかたちで論を進めていらっしゃいました。

 

gentle finger window 最初はそこまで考えなかったですが、どこから話ははじまっているんだろう……

 

ネムリ堂 どこから、異世界に入っているんだろう、っていうことですよね。

 

gentle finger window 郵便を届ける、っていうのが、そこがもう仕組まれているのか、良夫さんが狙われたっていうか。郵便を届けるところから、良夫さんはもうすでに引き込まれていっているのか、なんか、どこからこれははじまっているのかな、ひきずりこまれたんだろうって、そこもまた怖いっていうか、ドキドキするところですね。しかも家の広告、ちょうどいいタイミングで入ってくる、それもやっぱり仕組まれたものなのか。すべてがドキドキはらはら進んでいくうちに、読者もいっしょになって入っていく。私が子どもの頃読んで怖かったのは、あ、逃げなきゃ、と思って逃げた、ぽん、と出たところにおばあさんが、「いらっしゃいませ」って出てくる……

 

ネムリ堂 静かな顔してね。なんにもなかったみたいにね。

 

gentle finger window そこがすっごく怖くって。子どもの時、怖ーい、このお話、って思ったのをおぼえてます。

 

ネムリ堂 でも、それでとりこになってしまったと。

 

gentle finger window そうですね。はらはらしながら読むようになりましたね、安房さんを。

 

ネムリ堂 なんかね、信号の使い方も、作品の中で書かれている気がして。良夫さんが酒壺を預かって帰る時に、信号が、青信号になって、渡っていくんですよね。で、最後、ラストシーン、市電が走るじゃないですか、おばあさんと顔をあわせて店を出ると、たしか、信号があったと思うんですよ……。

 

gentle finger window 確認しました。一番最後の文章ですね。「信号が黄色から赤に変わって、市電がゴオッと走っていきました。」

 

ネムリ堂 そうそう。だから、「赤に変わる」っていう風になったのは最後のシーンなんですよね。で、最初のシーンでは「青信号」なんですよ。それが、どんな風に安房さんは考えてそれを配置したのかな、と思って。

 

gentle finger window ほんとですね。今言われてそこははじめて、着目しました。

 

ネムリ堂 私もそれ以上何も考えてないんだけれど。(笑)

 

gentle finger window でも、面白いですね。最初は青なんですね。

 

ネムリ堂 そうそう。だから、藤井さんがおっしゃられたみたいに、もう、元の世界には戻れないふたりってことなのかな、というのもちょっと、感じさせられるような気もして。

 

gentle finger window 黄色から赤に変わって止まっているふたりの前を市電が走っていったのは、過ぎて行ったってことなんですかね、異世界、魔物の世界が。

 

ネムリ堂 「異世界」が、目の前を走って行った……そういうイメージなんですかね。なんか、目隠しされるような感じですよね、市電が走っていくっていうのは。そのあとの風景は無しで話は終わっているわけで。

 「電車」も。「電車」で出かけますよね、郊外の新しく買った家には。そして、「市電」も、最後に、市電がゴオッと走っていきました、で終わる。「電車」と「市電」も、どんなふうに使っているのかな……。

 

gentle finger window ほんとですね。なんか、いろんなそういう秘密じゃないですけど、あるんでしょうね。いままたゾオッと、怖いなって。

 

ネムリ堂 アロマアクセサリーさんが、安房作品における「ハンカチ」について、この間お話されていたんですけれど、ちょっと、お話していただいてよろしいですか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida こんにちは。よろしくおねがいします。ハンカチについて、ですか……。

 

ネムリ堂 なんか、生々しい描写がない、っていう風におっしゃっていませんでした? 汗をぬぐうとか、手をふくとか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうなんです。ハンカチというのは、本来の目的は、濡れた手を拭くですとか、汗を拭くですとか、そういったことに使われるものだと思うんですね、日常的な道具ではないですけれども、そういったものとして。ただ、安房さんのお話の中では、魔法を使うような道具ですとか、そのハンカチの上の中に異世界のようなものがあったりですとか、そういった本来の人間が使っているものとは違うような道具として描かれているなあというのがちょっと不思議でした。

 

ネムリ堂 私もどの作品だか忘れちゃったんですけど、汗をぬぐうのはハンカチじゃなくて「手ぬぐい」で、なんか、安房さん書かれていたんですよね。ハンカチはそうじゃなくて、むしろ、「つつむ」という動作の特別感といいますか、例えば「秋の音」(一九八一)で、三つの小さな楽器を大事に白いハンカチでつつむ、とか、「サンタクロースの星」(一九八〇)では、カギをあけることのできる青い星をサンタクロースはハンカチにつつんでポケットに隠したりしているんですね。あるいは、いちばん有名な「北風のわすれたハンカチ」では、ハンカチの上に食物が現れる魔法を書かれている、という。そんな風にハンカチが、汗をぬぐったり、手を拭いたり、とかそういうものじゃなくて、書かれているな、っていうのがありますね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida ハンカチを使って、魔法的なことが行われたり、手品師がなにかものを出すのに使われたりですとか、それは、ちょっと不思議に思いました。

 

ネムリ堂 ハンカチは、「マジック」からの発想で、こういうものが現れるみたいな、そういうイメージもあるんでしょうかね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida はい、手品、ですよね。

 

ネムリ堂 なるほど。もしかして、安房さん、小花模様のハンカチをお持ちで、それが、発想の元になったんじゃないかな、って想像したりもしてたんですけど。ハンカチが、小菊の花とは言わないまでも、小花の模様のレースの縁取りのハンカチとかお持ちだったんじゃないかなって、想像してて。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですよね。ハンカチにレースの縁取りをしたりですとか、刺繍をしたりですとか、ありますけど、ハンカチ自体にそうした花柄の模様とか、小花模様のもの、お持ちだったのかもしれませんよね。ひろげるとお花畑に見えますよね。

 

ネムリ堂 もしかしたら、そんなこともちょっと、思いました。でもね、ハンカチだけで、私、アロマアクセサリーさんがハンカチについて気にされていたから、調べてみたんですけど、「白樺のテーブル」では、緑の娘がハンカチでテーブルを拭いていたりするんですね。「海の口笛」では、かけはぎ屋の娘が、ルーペを絹のハンカチでピカピカに磨くっていうのがありました。「だんまりうさぎはおおいそがし」では、おしゃべりうさぎがたんぽぽの刺繍のハンカチで、窓ガラスのガラス拭きの仕上げをするっていうのもありました。なので、そういう風なハンカチの使い方も一応ある、みたいではありました。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida ありがとうございます。なにか、ものを拭くことはあっても、肌に触れて拭くということはないんですかね。

 

ネムリ堂 生々しい感じのはなかったですね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そこはちょっと不思議な感じはしました。皆さんはいかがでしょうか。

 

ネムリ堂 ymstさん、いかがでしょうか。ハンカチについて。

 

ymst 私は、このお話の中のハンカチって、青いハートのついたハンカチですよね、それ、ぜんぜん頭に入ってなくて、あとで、ここに出て来るんだっていうのが、ほんとに後々になってわかって、何回も読んでいるのに、このお話って、見落としがあるっていうか、読むたびに、あれ、こんなところあったかな、て、、すごく感じるんですよね。

 

ネムリ堂 そういうこと、ありますよね。後から話がつながってくるみたいなね。あ、この泉は、あのハートだったのか、とか。

 

ymst ハート形っていうのが、洋風で、なんか、すごくまた異質な感じがして。このお話のなかの古い酒倉とのミスマッチ感というか。

 

ネムリ堂 ハート形については、アロマアクセサリーさんが、ハートはこんな意味があるんじゃないか、なんておっしゃっていましたね。いかがですか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida ハートはやはり、心の形の象徴で、そこから、元の世界か、ほんとの世界とパラレルなのかわからないのですけれど、いったんは戻ることができたってことは、登場人物たちの心の窓?なんていったらいいのですかね……

 

ネムリ堂 「ゲート」っておっしゃってませんでした?

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうです、「門」です。心の中から元の世界というのですか、現実世界、リアルとファンタジーの世界を行き来する、戻るだけかもしれないのですが、そういうゲートを象徴しているのかなと、私は思いました。

 

ネムリ堂 それもなんか、面白いなあと思ってお話伺いました。ありがとうございます。

 このお話、小人が出てくるっていうのも、大きな特徴だと思うのですけれども、安房さん、小人のお話もいくつか書かれてまして、そのご紹介をいたしましょうか。安房作品における小人は以下のものになります。

・「まほうをかけられた舌」味の小人 (一九七〇)

・「ハンカチの上の花畑」菊酒の小人 (一九七三)

・「火影の夢」火影の中の小人の娘 (一九七五)

・「南の島の魔法の話」ピアリピアリ (一九七八)

※「ピアリ」とは、ペルシャ神話で「善なる妖精」の意

・「みどりのはしご」モチノキのこびと (一九七九) 

・「なのはなのポケット」単行本未収録作品。八人の小人に春のセーターをつくるお話。(一九八一)

「風になって」火の精の小人 (一九九一)

 

小人の登場する同時代のファンタジーとして、いぬいとみこさん『木かげの家の小人たち』というお話がありますが、これは「ハンカチの上の花畑」より十年以上さきがけていて、一九五九年発表です。また、佐藤さとるさん『だれも知らない小さな国』シリーズも、これも一九五九年発表で、いぬいさんの作品と同年なんですね。そういった小人たちのお話がまずあって、それから、安房さんの「ハンカチの上の花畑」が登場してくるわけですね。

小人について、ymstさん、北海道にお住まいで、小人のお話が北海道には伝わっているということですが、教えていただいてよろしいでしょうか。

 

ymst 北海道の小人って、コロポックルというのが有名かなと思うのですけれど……

 

ネムリ堂 佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』もコロボックルがでてきますよね。

 

ymst 「コロボックル」と「コロポックル」っていうのは同じらしくって、アイヌ語は「ポ」と「ボ」が同じような発音をするのですって。

 

ネムリ堂 「蕗の葉っぱの下の人」という意味でしたっけ。

 

ymst そうです。ふつうの蕗だと、お皿くらいの大きさか、もうちょっと大きいくらいかなって思うのだけど、北海道の十勝の方に行くと、ラワン蕗っていう、とてつもなく大きい蕗があって、それはほんとに、大人の人間が傘に入れるくらい大きい、ほんとに中で雨宿りできるくらい大きいのです。でね、その下にいるコロポックルと呼ばれる人だとしたら、普通の小柄なアイヌの人を書いたのじゃないか、と、そこからファンタジーのお話が生まれてきたのじゃないかと。

 

ネムリ堂 先住民を、「妖精」とか「小人」とかの話として、伝承の中に残すっていうことは、世界各国、どこでもあることですよね。そういう風にアイヌの人を表現しているかもしれない、ということなんでしょうかね。

 

ymst 普段の生活スタイルとか、そういうことを伝承するようなところがあるのかな。

 もうひとつ、北海道の小人に「ニングル」というのがいるのですけれど、これも、アイヌの小人と言われているのですが、これは富良野地方……、富良野はご存知ですよね、皆さんきっと。

 

ネムリ堂 ラベンダーが有名でしたか。

 

ymst そうですね。『北の国から』の舞台になったところで、北海道のど真ん中なところなんですけれども、そこの森の中限定のアイヌの小人らしいのです。

 

ネムリ堂 富良野限定の小人なんですか。

 

ymst 限定というか、富良野の民話の中に登場するとされているのだけど、その民話自体を伝える資料が明らかになってないらしくて。脚本家の倉本聰さんが『ニングル』(一九八五)、『ニングルの森』(二〇〇二)っていうお話を書かれて、『ニングル』っていう舞台やオペラも上演されたと思います。それもたぶん、富良野が舞台なのかな。

 「コロポックル」とか「ニングル」っていうのは、自給自足で生活をなんとかしていってっていう小人たちですよね。あと、たとえば、安房さんてグリムのお話好きだったとおっしゃってましたよね、外国のグリムなどのお話だと、例えば「小人のくつや」とか……

 

ネムリ堂 ああ、「小人のくつや」。眠っているうちに、小人がくつを作ってくれるお話でしたっけね。

 

ymst あと、「白雪姫」の小人が「小人」って言っていいか、わからないけれど。鉱山で銅を掘ったりする人たちですよね。小人って、「職人」てイメージがありませんか。

 

ネムリ堂 そうですね、銅細工を作ったりとか、ドワーフとかね。

(※後注・「ドワーフ」→高度な鍛冶や工芸技能をもつとされている)

 

ymst ネットで読んだあるコラムで、グリムの中の職人の小人とかが、仕事のお礼に小さい服や、靴をプレゼントされると、飛び跳ね踊ったりしながら、出て行ってしまう、という……。

(※後注・KHM39「ヴィヒテルの小人たち」。東洋大学教授、大野寿子氏のコラム「小人は妖精か?—グリム童話を考える③—」に言及あり。

http://id.nii.ac.jp/1060/00010970/

 

ネムリ堂 ああ!! そういうお話があるんですね。なんか、私も、『妖精の国の住人』(キャサリン・ブリッグス 著 研究社)という妖精の民話集があって、そこに入っていたような気がします。(※後注・第二部守護妖精「親切なピクシー」に言及あり)

 

ymst そこから「解放」される、というような気持になっちゃうのかな……。そういう……。それで行っちゃったのかな、なんて。

 

ネムリ堂 なるほど、そうですね。「ハンカチの上の花畑」では、プレゼントが増えるに従って、で、最後のバイオリンの音楽が引き金でしたよね。

 

ymst 飛び跳ね、踊ったりしながら、出て行ってしまう、なんかそういう、踊ったり歌ったりが好きな、本来、小人たちは好きなのかななんて。童謡にも「森の木陰でドンジャラホイ」ってありますよね。

 

ネムリ堂 あれも踊っている歌ですかね。「ドンジャラホイ」って踊っているのかな。

 

ymst それで、いなくなっっちゃったのかなって思ったの。

 

ネムリ堂 私もプレゼントの話で今、思い出したのですけど、良夫さんたちが現実へ戻るきっかけとなったのは、小人からのプレゼントの草で編んだ靴なんですよね。で、小人たちの消える原因はえみ子さんたちの小人へのプレゼントで、フェルトの靴であったり、バイオリンであったり、ていう。お互いのプレゼントがそれぞれを解放するきっかけになっているなっていうのを、今、お話聞いてて、思いました。

 

ymst さっきのお話の中で、安房さんが小さな菌たちを擬人化したら、小人になるんじゃないかと思って書いたっていう。小人というよりは、この人たちは酵母だったんじゃないかと思ったんですよね。

 

ネムリ堂 「酵母」と思って、安房さん書かれていると思いますよ。このお話自体は。

 

ymst 小人たちはほんとに酵母だから、最後に良夫さんたちが、結局お酒造りをやらなくちゃいけなくなるわけではない、っていうのが、説明はつくっていうか。良夫さんたちは人間だから、「お酒造り」にはならない……

 

ネムリ堂 酵母じゃないから……(笑)

 

ymst 結局はならないんじゃないかな、と思ったんですよね。

 

ネムリ堂 むしろ、違う菌だったりしてね。ハンカチの上ではね。

 

ymst ちょっとよくわからないけれど、あのトンネルをくぐって……。ガリバートンネルですよね。

 

ネムリ堂 ドラえもんの。(笑)

 

ymst ドラえもんのはただ小さくなるだけで世界はそのままだけど、「ハンカチの上の花畑」の方のトンネルは、入ると、菌の世界に行っちゃうのかしら。

 

ネムリ堂 どうなんですかね。電車に乗っていくと、知らないうちにその世界にとりこまれていたっていう、どこからが現実で、どこからが異世界でっていうのがわからない、っていうところが怖いって先ほど、gentle finger windowさんおっしゃっていたと思うのですけれど、そこをはっきり書かないのも安房さんのテクニックかなあと思って読みました。

 

ymst 霧がかかってきちゃったりしているのも、なんか「発酵」しているのじゃないかなって。

 

ネムリ堂 なるほど。煙が出ていたり……(笑) そういうイメージかもしれないですね。菌の生態に詳しいかたがいらしたら、また違う読み方ができるかもしれない。

 安房さん、小人についてのエッセイも書かれていて、

・「小人との出会い――針箱の中の小人」(一九九一)

・「小人と私」(一九八六)

というエッセイ二つを書かれているのですね。

(※後注・『安房直子コレクション』四巻収録)

「針箱の中の小人」というエッセイの中では、古い針箱の中にはたいてい小人が住んでいて、その針箱はいくつもひきだしのついた木の針箱で、もし真夜中に針箱の中のひきだしの隙間から青い光がこぼれてきたら、確かに小人のいるしるしなんです、みたいに、そういうかわいらしいエッセイ書かれている。で、これ、作品では、ねずみの話になっているんですかね。「小さい金の針」(一九七六)っていうお話があったと思うのですけれども。

「小人と私」というエッセイの方は、小さい頃、木のラジオがあって、その中に小さい人達が住んでいて、歌ったりしゃべったり、劇をすると信じていた、と。で、ヨーグルトやパンの中の人を考えるようになったのは、結婚して料理をするようになってからです、と。酒の発酵というのが不思議で、そこから「ハンカチの上の花畑」が生まれましたっていう、そういうエッセイも書かれています。

菊酒の「菊」っていうのも、なにか面白いキーワードかなあと思ったのですけれども、アロマアクセサリーさん、菊について、ちょっとご紹介いただいてもよろしいでしょうか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 菊についてですよね。菊は、皆さんもご存知だと思いますが、重陽節句という秋の節句で、昔から、不老長寿ですとか、健康にいいということで、菊酒が飲まれたり、着せ綿—菊の朝露を吸わせた綿で身体をぬぐうという風習がありました。それは、平安時代、『枕草子』ですとか、『紫式部日記』にも、描かれてます。実際にもしそれを見たい場合には、私は湯島天神で、そのような催しがあったときに、行きました。今年も秋に行くとご覧になれますし、菊の花びらを浮かべた菊酒をいただくことができます。

菊酒のつくり方につきましては、『荊楚歳時記(けいそさいじき)』という、中国の六朝時代、『三国志』のちょっと後の時代になるのですが、その時代の揚子江中流域の風習を記録している本があるのですが、その本に大変詳しく載っています。日本にも中国のそういった文物、伝わってきていますので、そういったものが風習として伝わってきまして、平安時代にも、そのような風習として、菊の効能ですとか、非常に珍重されていたのではと思います。やはり、菊酒を飲むと、登場人物の人たち、元気になってましたよね。

(※後注・「菊」についての古典からの説明は、以下の著作から引用。『aromatopia 第90号』 フレグランスジャーナル社 二〇〇八 「aroma romantique 香りの文芸散策 21 秋宵の賞玩―情の籠る菊花の香り―」アイダミホコ執筆の記事より)

 

ネムリ堂 そうですね。すごく元気の出る美味しいお酒ってことで。先ほどおっしゃられていた、中国の古い文献での菊酒のつくり方っていうのは、どういうふうな作り方なんですか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 菊の花を使うんですが、花だけではなくて、他の生薬になるような、クコの実ですとかを、一緒に醸すんですよね。

 

ネムリ堂 醸すんですか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね。歳時記にはそのように書いてありますね。

 

ネムリ堂 私は普通の、昭和のクッキング・ブック(『カラークッキング8 お菓子と飲みもの』主婦と生活社 一九六九年刊行)で読んだのですけれど、「菊酒のつくり方」っていうのが載っていて、それだともっと簡単なやつで、食用菊をよく洗って、一輪まるごと日本酒に入れて、一晩漬けこんで楽しむという。その際は菊の香りをたのしむために、香りの控えめな日本酒を使うとよいのかもしれません。これは、日本で独自に開発された菊酒のつくり方かもしれないですね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね。湯島天神でいただいたのはほんとに、日本酒に菊の花びらを浮かべてあったものです。文献だと、やはり、黍や、お米を交えて醸すと書いてありますね。昔のお酒はそうやって、にごり酒だったっていうか、醸してたんじゃないかと思うんですよ。

 

ネムリ堂 ああ、そうですか。そうなんですね。でも、安房さんの菊酒って結構本当に、ご自分のオリジナルなものみたいで、私、「梅酒」「かりん酒」を想像しながら、「菊酒」を考えていて、小学校の時、読んでいたんですけれども。すごい甘い香りのする、甘いお酒のようなイメージがあって。なんで、恐らく現実の菊酒とは違うのかな――って思ったりとか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 私も読んで、なんか透明感のある、清らかな香りのよいお酒だと思いました。本格的に醸造するのはたぶん、法律上、まずいのかもしれないですし。

(※後注・法律の規定により、製造免許のないものは酒類を製造できない。梅酒など果実酒は、自家消費用にかぎり、例外として許可されているが、ぶどうや穀類を使ってはいけないなどの細かい規定あり。)

 

ネムリ堂 業者の方でないとだめなんですよね、お酒はね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida ハーブ酒なんかも、いっとき、結構いろいろ……

 

ネムリ堂 ああ、そうなんですね。なんか、漬け込むのは大丈夫なんだけど、醸しちゃいけないのでしたっけ。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida たぶんそういった、細かなきまりがあったかと思います。でも、安房さんのお話にでてくる菊酒は、本当に香りがよくて、すうっと、さやかなというか、きよらかな感じのお酒のイメージでした。

 

ネムリ堂 そうですよね。そういえば、gentle finger windowさんのInstagramを拝見したのですけれど、Instagramに「菊酒」っていうラベルのお酒の写真が載っていたのですが。あれは、どういうお酒なんですか。

 

gentle finger window あれは、石川県の有名な、駅でも売っているお酒で。

 

ネムリ堂 今度買ってみようかしら。

 

gentle finger window 「白山」の霊水でつくったお酒っていうので、売られているのですけれど。

(※後注・お酒は、「加州菊酒」菊姫合資会社 製造。石川県白山市鶴来新町夕8番地  tel 〇七六・二七三・一二三四)

アロマアクセサリーさんが菊酒の、日本の古来からの不老長寿のお話されていたじゃないですか。私、お能がすごく好きで、よく観てたんだけど、『菊慈童』っていう演目があるのです。能楽で。それって、菊の花から落ちた露を飲んだ子供が、不老不死になる、で、霊水からつくった菊酒を帝――中国の皇帝に捧げて、不老長寿を祈願、繁栄を祈願するという演目なんですけど、不老不死になった菊慈童、まあ、霊なんですけど、「ハンカチの上の花畑」のおばあさん、暗い酒倉から出てきてまるで幽霊のようって書いてあって、なんか、それこそ菊酒を飲んで不老不死になった霊なのかもしれない、なんてちょっと思いました。

 

ネムリ堂 ほんとに人間なのかもわかんないような存在ですよね。でもその一面で、息子を戦争のあと、二十年待った、とか、ちょっと人間臭いようなことも言っていたりもして。

 

gentle finger window なんか、得体が知れない……不気味な感じですよね。

 

ネムリ堂 ですよね……。あ、菊のことなんですけど、「菊枕」ってご存知ですか。

 

gentle finger window ほんとにある、枕なんですか?

 

ネムリ堂 ほんとにあるんです。松本清張が『菊枕』っていう短篇を書いているんですけれども、ほんとに菊の花を摘んで、乾かして、それを枕に、白い布袋に詰めた枕があって、それが、菊の香りから良い効能があって、健康に良いらしいんですね。杉田久女という俳人がいるのですが、師である高浜虚子に菊枕を贈ったというエピソードがあって、それを短篇にしているのですが、それがどうも有名らしくて。でもその「菊枕」って聞くと、安房さんでいうと、「花びらづくし」の桜のまくらがあるじゃないですか。なので、もしかして、桜のまくらは、菊枕からイメージしたのかな、なんて思ったりするんですけど。

 

gentle finger window なるほど、そうつながるんですね。

 最初の方の話に戻るんですけど、アロマアクセサリ―さんが話されていた、ハンカチの話で、ymstさんがグリムに繋げられて、それでちょっと思いついて。グリム童話で、ハンカチかナプキンかをひろげるとご馳走がでてくるっていう話があったかと。

 

ネムリ堂 それは、ノルウェーのむかし話と、グリムの物語とあって、グリムでは、「おぜんやご飯のしたくと金貨をうむ驢馬と棍棒袋から出ろ」というお話があって、それですかね。安房さん、確かに、影響を受けているというエッセイをご自分で、「著作『北風のわすれたハンカチ』その他について」(一九七八)というのを書かれています。

 

gentle finger window ハンカチじゃなくって……

 

ネムリ堂 うん、おぜん、というか、テーブルかけなんですかね。

 

gentle finger window なんか、ぱっと広げると、ご馳走が出てくる、っていう話がそういえばあったなあ、って。ハンカチを広げると、菊酒が作られるって、なんとなく似たような話だなって、今、アロマアクセサリーさんとymstさんの話を聞きながら、思い出しました。

 

ネムリ堂 そうですよね。「北風のわすれたハンカチ」(一九六七)もそうですし、「黄色いスカーフ」(一九八一)も、布を広げると、オレンジとホットケーキがが出てくるっていう。

 

gentle finger window なるほど。昔の物語に影響されているものの、安房作品の中のひとつなんですね。この「ハンカチの上の花畑」っていうのは。

 

ネムリ堂 と、思います。ハンカチっていうのはね。あと、もうひとつね、山室静さんが訳されたむかし話で、青い雄牛の耳の中に布が入っていて、それを広げるとご馳走が出てくる、というそういうむかし話もあって、で、それで、(「北風のわすれたハンカチ」では)青いハンカチを熊は耳にしまうのかな、って思いました。

 

gentle finger window え、ヨーロッパのお話なんですか。

 

ネムリ堂 どこのお話だったかな。世界のむかし話の中のなにかだったのですが。(※後注 山室静 編『世界のむかし話―北欧・バルト編』現代教養文庫 社会思想社ノルウェーのお話「木のつづれのカーリ」でした)

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 小さな人が、何かを作るというのでひとつ思いだしたのですが、日本のむかし話で、「うぐいす姫」というのがありまして、それはたんすのひきだしを開けるとその中に小さな人たちが、田んぼや畑を耕していて、稲を実らせるっていう話があるなあっていうのを思いだしまして。

 

ネムリ堂 そうですね。そういうお話ありましたよね。「うぐいす姫」でしたっけね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida あれは、「見るな」の伝説でもありますよね。見ちゃったんで、うぐいすになって、飛んで去っていってしまうわけですけれども。やっぱりそういう風な何か、小さな人が限られた場所っていうのですかね、たんすのひきだしも四角い場所なので。

 

ネムリ堂 そうですね。四角いですね、ハンカチも四角いし。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そういうところに特別なスペースというのですかね、そういうのが出現するというか、そういうイメージと言うのはその童話ですとかむかし話を学んでいると、こう自然と、基本的なこととして、(安房さんの)頭の中に残ってらっしゃったのかな、と思いました。

 

ネムリ堂 そうですね。Planethandさん、いかがでしょうか。そういうような、お話を聞いて。

 

Planethand すごい、興味深く伺っていたのですけど、やっぱり、なんてんですかね、自分の身近なものが突然こう変異して、他の国に入っていくとか、自分の立ち位置が急に変わっていく? やっぱりこう、どこかお話を読んでいる時っていうのは、読んでる自分がいて、感じる自分がいて、っていうのははっきりしてるんですけど、安房さんのお話を読んでいると、自分がいきなり主人公になっていて、急に小さくなってみたりとか……。

スイッチの入り方がどこかわからない、よく読んでいると、さっき話していたみたいに、「信号」だったり、するんですけど。そこが、こう、サイズが変わってみたり、広げたハンカチの上に急に空間ができてみたり、っていうのの、切り替えの面白さみたいなことがたまらなく楽しいなあっていうのが、やっぱりあって。身近なところにそういう違う世界の入口があるっていうのを常に感じさせてくれるっていうのがほんとにおもしろいなあっていうのがね、あって。

自分はこれを読んでいた時、子どもだったので、お花を食べるっていう感じが……、お花を飲むとか、お花と言うのは、香りを感じて、見て、っていうものだと思っていたので、そこの、花畑からお酒が結びつかなくて、最初のうちは、とっても新鮮で……。そういうこの、ちょっとした新鮮な入り口を感じさせてもらえるっていうので、びっくりしたんですよね。

 

ネムリ堂 お花がお酒になるっていうのは、すごい新鮮でしたよね。子ども心にね。私も小学生の時、読んだんですけど。

 

Planethand 小人っていうのも、普通の小人さんだと、最初からちっちゃくって、知らない国にいた人たち、って感じだったんですけど、安房さんの「ハンカチの上の花畑」だと、自分も気がついたら小人になっちゃったりとか。「小人」って存在はなんなんだろうなあ、って思ったら、「酵母」ってお話でね、なるほどなあって思ったんですけど、やっぱり、気がついたら小人になってた、自分のサイズが変わるっていう、その不思議さっていう。最初は、この人たちも、もしかしたら人間だったのか? っていうね。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。秋元さん、いかがでしょうか。

 

秋元紀子 はい。今日初めて、入らせていただいて、すごくためになりました。私は大人になってから読んだので、ちょっと皆さんとは違う感じで入ったなあと思っているのですけど。私、これを読んだ時にすぐ思ったのは、「木の葉の魚」(一九七七)に似ているなって思いました。

 

ネムリ堂 ああ、そうなんですね。

 

秋元紀子 お母さんが、これで幸せになるよ、って渡してくれた鍋を、それがどんどん「モノ」になっていくことにすり替わっちゃって、これが幸せなんだっていうふうに、物欲に走っていったっていう……

 

ネムリ堂 「欲望」のお話ですね、両方とも。

 

秋元紀子 あ、同じだ……やっぱり安房さんは人間にはこういうところがあるよ、っていうのを言っているのかなあって思ったのと。あと、あのね、小人の話がいっぱい出てきたので、どうしようかなって思ってたんですけど、私の知り合いで、ふたり、見ているんですね、小人を。

 

ネムリ堂 ああ、そうなんですか。

 

秋元紀子 それで、ふたりとも、全然違うところの友だちなんだけど、ふたりともおんなじこと言ったんですよ。中年のおじさんで、太ってたって。だから、これ読んだときに、やっぱり太ってるんだって、安房さんも見たのかな、って思いました。(笑)

 

ネムリ堂 太ってるんですね。(笑) 小さいおじさん、って、都市伝説があるって聞いたことがあるけど。

 

秋元紀子 台所で見た、って言ってたかな。ひとりは。あっ、やっぱりいるんだ、って思ったって言うから、私もそのまま、やっぱりいるんだなって、思ってるんですけど。それが、ひとりじゃなくて、もうひとりのかたも、見たことがあるって、普通に、おじさんだったって。それで、太ってたって。だから、皆さん、いるんですよ、小人。(笑) 見た、って言ってるから。なんか、台所で。炊飯器の上かな。ふっと見たら、ちゃんといたって。男の人が。

 

ネムリ堂 じゃあ、炊飯をする小人なんですかね。発酵させるとかじゃなくて。

 

秋元紀子 わかんない。わかんない。

 

ネムリ堂 お米を炊飯する菌……。

 

秋元紀子 どういうことかわかんないけど(笑)はっきり見たことがある、っていうのを、ふたり私は聞いてるんで、私もいるんだろうな、って思ってます。佐藤さとるさんの本、読んだときに、あ、いるんだ、やっぱり、って、あの時も思ったんですけどね。

 あと、私は今回、五月、六月、「ハンカチの上の花畑」を、朗読させていただくのですけど、私は、えみ子さんがすごい、と思っているので、えみ子さんを、うまく描きたいなあと思っています。

 

ネムリ堂 すごいっていうのは、どういう意味ですごいのですかね?

 

秋元紀子 えみ子さんさ、一日に一回しか働けない人をさ、すごい働かせたじゃない。(笑) 

 

ネムリ堂 そうですよね! すごいやり手ですよね! テーブルかけでやるなんて、と思って……!

 

秋元紀子 ねえ! だんだん、大きくして、最後はテーブルかけ、机の上じゃなくて、畳の上に敷いて、働かせたって、すごすぎ……!(笑)

 

ネムリ堂 それは、すごいです!(笑)

 

秋元紀子 可哀そう!それで、へとへとになって、なんか大変そうなのを、書いてあるじゃない。私、あれはね、安房さん、「過労死」を言ってるのかなって思ったの。サラリーマンの人の。こういう形で過労死を言ってるんだって。こんなに欲のために、こんな風に働かせるっていう、こういう社会的なことも言ってるのかなって。

 

ネムリ堂 過労死の話って、何年くらいから問題になりはじめましたかね。

 

秋元紀子 ね、それを調べないとね。一九七三年が。でもそうかもしれないね。そろそろ言われてきたんじゃないかな。

 

ネムリ堂 モーレツなサラリーマンもでてきた、高度成長期のっていう……(※後注・「過労死」自体は一九八〇年代後半から注目され始めた)

 

秋元紀子 そう、これは過労死だって。企業がこうやって働かせてるっていう、なんかすごく思ったの。利益だけのために、人間をここまで追い込むんだなっていうような。だからその、えみ子さんの発想=社会的なこと、って私はすぐやっぱり、社会にも物申しているって、安房さんはひとこともそういうこと言ってないけど、なんか手掛かりがあるような気がいつもしています。

あと、「電車」は、私もすごく大事にしたいなと思ってました。安房さんは、ちゃんとこういう風なとこに置くんだなって思って。最後の、ゴオッと走らせるっていうのは、ほんとうまいなと思います。驚いちゃったあとの身体ってどうですか、すぐに現実に戻りますか。そこに、なんかこう電車が、ゴオッと行くっていうのは、イコール彼らたちふたりの、なんとも言えないいろんなものを持って、立っているのじゃないかな、そこで。そしてそこを市電が走りぬけて行く。だからふたりを止まらせるためにも信号は赤。信号を赤にしないと止まれないでしょ、で、それでじゃないかな。あと過去から未来への電車かもしれないし。これまでのことと電車の走り去っていくのと。走馬灯のような。

 

ネムリ堂 時間の流れかもしれないのですね。

 

秋元紀子 そう。時間の流れっていうそういうものはあるし。ふたりがそこで呆然とまだ立ちすくんでいる姿が見えるよね、なんかね。

 

ネムリ堂 そうですね。後姿がはっきり見えるような終わり方ですよね。

 

秋元紀子 なんか、そんなかんじで。いや、今日は参加出来て、すごくよかったです。皆さん、すばらしくって、いろんな知識があって、そこまで深くいろんなことを考えてらっしゃるんだなと感心しました。大変ためになりました。

 

ネムリ堂 ありがとうございました。秋元さん、ぜひ、朗読会の宣伝の方を、お願いしてもよろしいですか。

 

秋元紀子 会場主のPlanethandさんもいらっしゃいますけど、二〇二四年五月一九日に、東長崎、池袋から六分の、二つ目の駅ですぐのところなんですけど、そこはスタジオなので、ほんとに私が、手を伸ばしたら触れるくらいな近さで朗読します。

 で、もうひとつは、六月二九日に、横浜の、港の見える丘公園ていうのがあって、その真向かいに岩崎博物館ていうのがあって、その中に、山手ゲーテ座という、ほんとにいい、百人くらい入れるいい劇場がありまして、そこで、やります。配信をそこでやってもらえるそうなので、もしよかったら。私だけじゃなくて、オドラータといって、プロの木琴奏者は彼女ひとりだと思うんですけど、プロの木琴奏者と、ピアノと、私と、三人で、作り上げます。もしよかったら、いらしてください。みてください。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。では、最後に藤井さんに、「ハンカチの上の花畑」と対照的な物語があるっていうのを、紹介していただいて、終りにしようかと思うのですが、藤井さん、お願いできますでしょうか。

 

藤井実幸 「海の館のひらめ」(一九八〇)のお話が対照的だなと思っていて。あれは、レストランですごく働いていた青年が幸せをつかむ話で、安房先生がエッセイ(一九八九年『日本児童文学』掲載「『海の館のひらめ』のこと」・『安房直子コレクション』二巻に収録)の中で、「誠実に一生懸命生きている人の上には必ず、幸運の星がついているんだよ、ということを読者に伝えたくて」書いたとおっしゃっているんですけれど、それとは対照的に、「ハンカチの上の花畑」は働く喜びとか、一生懸命、誠実に生きるということを「失っていく」物語だと思うんですね。

 

ネムリ堂 「喪失」と「獲得」と、逆のベクトルのお話……。

 

藤井実幸 人間の善い面、真面目に働いて誠実であり続けて、人に正直に接していくことの喜びを書いたのが「海の館のひらめ」であって、反対に、自分の欲に負けていく、そして自分の欲のために小人とか、周りの人を、大事にすることをおろそかにしていくっていう物語が「ハンカチの上の花畑」だと思うんですね。

 で、ちょっと、これと関連して思い出したんですけど、おばあさんが大事にしている菊酒をつくる壺を、なぜわざわざ他人に渡したかなっていうことを、私、考えていたんですよ。それは、きく屋を「残す」ため。たとえば、跡継ぎさんが、あの壺を先代から受け取って、もし、自分の欲に負けて、菊酒を大切なときだけ、自分の身内にだけ飲ますんじゃなくて、売ればいいじゃんって思って、どんどん、どんどん、えみ子さんのように小人たちを使い出したら、働く喜びも、誠実に生きていく喜びも失っていく。それは、きく屋の身代を潰すようなことに繋がりかねないから、誰かに壺を渡して……、ある意味、あれは呪いの壺……

 

ネムリ堂 そうですね、諸刃のやいばですよね。喜びも、もっと大きな災いももたらすものでもあるのか……

 

藤井実幸 酵母のお話もありましたし、お酒の精という面も強いのですけど、でも、「売っている」お酒ではないのですよ。あのお店で、祝いの時とか、お節句とかに出すお酒であって、神聖なお酒をつくるためのもの、なんですね。跡継ぎさんがそれをそのまま、使えるかどうかの判断はできない。で、次のきく屋のために、この壺を手離さなければいけない、と、私はちょっと、思いました。

 

ネムリ堂 ああ、そういう構造だったのですね。ありがとうございます。面白いです。

 

藤井実幸 「鶴の家」(一九七二)の青いお皿がありますよね。あれも「お祝い」として持ってこられているのだけど、お皿におにぎりとかを盛るとおいしそうに見えて、喜びをもたらすものでもあるのだけど、こう、死んだ人が鶴の姿となって浮かびあがってくる……食器をそういうものとして使っているのかな、と思いました。

 

ネムリ堂 あ、本当ですね。どちらも食器ですものね。

 

藤井実幸 魚のあの話、「木の葉の魚」の鍋、あれもそうですよね。喜びをもたらすものなのに、欲に負けたら反対の意味を持つ。そう思いましたね。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。なるほど……!

 はい。今日はありがとうございました。このへんで失礼させていただきたいと思います。次回は「雪窓」ですね。

偕成社安房直子コレクション』一巻

偕成社文庫『白いおうむの森』

筑摩書房ちくま文庫『白いおうむの森』

偕成社 絵本『雪窓』(山本孝さん・画)

以上に収録されています。次回はそちらをとりあげたいと思います。また、よろしくお願いいたします。

 

(2024・4・26)

 

『座談会記録 童話作家安房直子さんについておしゃべり』冊子化いたします。planethandさんの安房直子企画展「幻のもえる市」や、12月の文学フリマ東京にて、頒布予定です。もちろん、直接通販も承ります。ネムリ堂のX経由で、ご連絡ください。

童話作家安房直子さんについておしゃべり(2)「天の鹿」

童話作家 安房直子さんについておしゃべり (2)「天の鹿」

 2024・3・9開催

 

参加者 

ネムリ堂

・gentle finger window

・アロマアクセサリー&香りと文学m.aida

・ymst

 

ネムリ堂 こんばんは。ネムリ堂のスペースへのご参加をありがとうございます。

このスペースは録音しており、終了後、文字に起こして、ゆくゆくは、記録用の冊子にまとめる予定です。スピーカーとして、発言されるかたは、その旨、ご了承ください。

このスペースは、2023年12月に、安房直子を語り継ぐ会~ライラック通りの会主催で行った安房直子作品ランキングの結果をもとに、ランキングの一位から、ひと作品ずつとりあげて、おしゃべりしようというものです。

 第2回目は、「天の鹿」をとりあげます。

 この作品は、1978年から雑誌『母の友』に6回に分けて掲載された作品です。1979年筑摩書房で、一冊の単行本として刊行されました。こちら、スズキコージさんのインパクトのある挿絵で刊行されています。現在ではこちら絶版になってしまってますので、『安房直子コレクション5』で読むことができます。

この作品は、ほんと大好きな、強烈に惹かれる作品でして、好きなシーンがすごくたくさんあります。

鹿の市というのがまず、いいですし、反物の模様が夜空に零れて行くシーンなど、すごく大好きです。どうでしょうか、好きなシーン。ymstさん、いかがですか?

 

ymst 好きなシーンはやっぱり「市」なんだけど、「市」のところはすごく目に浮かんで。もともとお祭りが好きなので、夜店とかがすごく好きなので、すごく(光景が)浮かぶんですけど、夜店がなんかちょっと怖いというか、新美南吉「狐」のお話に出て来るような、夜店の怖さをすごい感じました。

 

ネムリ堂 ああ、夜店がね。夜の市と言うのがまた、雰囲気があるのでしょうかね。私も、鹿の市と言うのがすごくよくて。あと、そうですね、あと、好きなシーン、娘たちの着物の模様で空の天気が変わるじゃないですか。そこもすごく印象的で。長女のたえの着物が縞模様だから、雨で。次女のあやは、紺の絹の着物で、闇夜。みゆきのかすりの着物で、雪、ってなってて。そういうところも、ドキドキしながら読んでいました。

(後記・ymstさんより、みゆきの名には「ゆき」がはいっており、かすりには、ただのかすりではなく、まさにたっぷりしたボタ雪のような模様「雪絣」がある。あやの名も、織物の「綾織」がある、というご指摘をいただきました。また、「たえ」の名もカジノキの繊維で織った「栲(たえ)」という布があることが判明しました。)

安房さんのお気に入りのマント着ているところを拝見したことがあるのですけれど、紺のかすりなんですね。三女のみゆきの造形なんですけれども、同人誌『海賊』でご一緒だった生沢あゆむさんが、みゆきが安房さんご本人にとてもよく似てるって書いておられてて。「安房さんの書いた作品の中で、彼女の真実の姿に一番近い主人公は、みゆき以外にないのではないだろうか。」という文章を「『天の鹿』のみゆきと安房さん」というエッセイで書かれています。これは、ライラック通りの会会誌『こみち』1号の掲載になっていますね。

 あと、昔話の定型といいますか「三」の繰り返しというのを、安房さんはよく書いているのですけれども、ymstさん、「三」の繰り返しみたいなものについて、グリムとの類似について、お話いただけますか。

 

ymst はい。似ているのだけど、グリムとはすごく違うなと思うことのほうがあって。日本の昔話でもきっと「三」て大事で、三人の息子だったり娘だったりが何かをやっていって、同じ事を繰り返して、三人目に何かが落ち着く、みたいなことがあると思うのですけれど、これも三姉妹でね、三人目のところで話が進むというか、落ち着くという。すごい不思議だったのは、お父さんも同じところに出かけますよね。

 

ネムリ堂 そうですよね、四つになってますよね。そうなると、「三」じゃない…ってことになっちゃうかな。

 

ymst でも、三姉妹、というところで「三」なんだと思うんですけど、じゃあなんでお父さんも行ったんだろう、ということをすごい考えて、お父さん、「広告塔」じゃないけど、まず先に行ってみて娘たちにそれを聞かせる役割があったのかな?と思って。

 

ネムリ堂 ああ! なるほど。

 

ymst 娘たちに話す役目があったのかな、と。行った意味合いは違うのじゃないかと思ったのですけれど。

 

ネムリ堂 まずはじめにお父さんが行って、鹿の市を三人の娘に伝えるために行ったという、そういう役割があるということですよね。

 

ymst かな?と思って。一番目と二番目の子は、だいたい、昔話とかだと、悪い子だったりしますよね。あんまり…

 

ネムリ堂 そうですよね、ちょっと意地悪だったり、見栄っ張りだったり。

 

ymst そういうところはあんまり無くって、すごくたのしみに鹿の市に行って、自分のほしいものを買って、自分のことだけを考えちゃってるところはそうだと思うのだけど…

 

ネムリ堂 そんなに強烈になにかこう、意地悪だったり、みゆきをいびっているとか、そういうことでもないし…。そこはちょっと安房さんのアレンジとしてはそうなっていますよね。

 

ymst そうですね。そこらへんは、昔話とは違うな、と思いました。

 

ネムリ堂 なにか、グリムの違うお話に似ている、っておっしゃっていたじゃないですか。そのお話も教えていただいていいですか。

 

ymst グリムの「森の家」というお話なんですけれど。「森の家」は、三人女の子がいて、上の子たちが森の家に出かけていって、そこには動物たちがいるんですけれど、動物たちのお世話をちゃんとしないのですよね。冷たくあしらうというか、お姉ちゃんもまん中の子もそうで。そこで地下室に入れられちゃうのだったかな、ひどい目にあう。

 

ネムリ堂 地下室に入れられちゃうのですよね。

 

ymst 三番目の子はまず、自分のことはさておき、先に動物たちにご飯をあげて、みたいな感じで、そこがみゆきとちょっと似ているというか。鹿に、ぶどうのお酒を先にあげたり、梨をわけあって食べたりというのが、お姉さんたちには無いことだった。

 

ネムリ堂 私、ymstさんに伺うまで、知らなくて。「森の家」というお話を。で、調べてみたら、あ、ほんとにこれ、みゆきと、他の姉娘たちの繰り返しと似てるなあ、と思って。安房さん、グリムをよく読まれていたから、そういう風なところから影響があったのかな、というのはすごく感じました。

 

ymst けして真似したのではなくて。

 

ネムリ堂 ええ、真似したのではなくて。あと、gentle finger windowさん、ほかのグリムのお話について似ているといわれていたと思うのですが、お話していただいていいですか。

 

gentle finger window さっきymstさんがおっしゃってた三人の娘が出て来る、お姉さんがいて、末娘がヒロインで。上のお姉さんがここでは意地悪でとかは全然ないのですけれど、私はこれをみて「シンデレラ」を思い出して。

「シンデレラ」は継子でいじめられていて、というお話ですから、そういうのは無いのですけれど、こう三人の娘で、上の二人が自己中心的で、っていう…、三人目が優しくて、最後王子様に巡り合えて幸せになるっていう、それが「シンデレラ」を思い起こして、かつ、最後、鹿が結婚相手となって一緒に天に昇って行くところが、自分が探していた王子様、お婿さんだ、と一緒に行くところが、グリムの「蛙の王さま」というお話を思いだして。

ちょっと気持ち悪い蛙が、結婚相手を探している。一緒にご飯を食べて、一緒にベッドに寝てくれる、それを叶えてくれる娘と出会って、もとの王子様にも戻れて結婚するっていう、そのお話を、これを読んでいて思い出しました。

 

ネムリ堂 この「天の鹿」は、異類婚姻譚に入ると思うのですけれど、西欧の異類婚姻譚て、たとえば、先ほどの「蛙の王さま」や「美女と野獣」みたいに、真実の愛によって悪い魔法が解けて、野獣は人間の姿になって、娘と結ばれるのだけど、安房さんの物語では、娘の方が鹿の姿になって天に昇って行く、っていうのが、そういう違いがありますよね。そこが、西欧のものと違うのだけれども、真実の愛の物語となって、というのが興味深いなと思いました。

 

gentle finger window なんかネムリ堂さんもよくおっしゃっていた、安房さんが『遠野物語』をお好きだったという…、馬のお話の…

 

ネムリ堂 「おしらさま」ですか?

 

gentle finger window 馬の…そうですね。『遠野物語』だったり、グリムだったり、すべてがミックスされたようなお話だなって思いました。

 

ネムリ堂 天に昇って行くというお話ということで、先ほどgentle finger windowさんが言ってくださったみたいに、私、遠野に伝わる白い馬と娘の婚姻譚「おしらさま」を思いだしたんですね。「おしらさま」のお話をちょっとご紹介しますと、父親と二人暮らしの美しい娘は雪のように白い若駒を大事にしており、いつしかめおとの関係になります。父親は馬を憎み、桑の木につるして殺します。娘は馬にすがりつきあまりに泣くものだから、父親はまた馬が憎らしくなり、斧で馬の首を切り落とすと、馬の首は娘をのせたまま、青い空へと消えて行った。おしらさまとは、このときからの神様で、馬をつりさげた桑の木の枝で、ひとつは娘、もうひとつは馬の首の形をかたどった木の枝をまつった蚕の神様です、と、そういうお話なんですね。蚕と馬と娘の物語のバリエーションは、岩手の他の地方や、福島、信州などにも伝わっています。その源流は、中国にあり、古くは4世紀に成立した「捜神記」にも類話が見られます。

父親と娘、娘と馬の魂の結びつき、父親による馬の殺戮、空へ昇って行く馬と娘、というのが、「馬」を「鹿」に置き換えると、こう、キーワードが一致してくるように思うのですね。安房さん、『遠野物語』愛読されていたって伺っておりますので、当然「おしらさま」もご存知だったと思うのですね。「天の鹿」の根底には、天に昇って行く馬と娘の物語「おしらさま」が潜んでいるように私には思えました。

ymstさん、おしら堂に行かれたことがあると伺ったんですけど、おしら堂の実際の雰囲気、教えていただいていいですか?

 

ymst はい。まず遠野という町自体が、すごく不思議なところで、山あいの急に見えてくるところにあるのですけれど、なんか本当にそこは魔界じゃないけれど…

 

ネムリ堂 隠れ里みたいな??

 

ymst 一歩入ったら空気が違うような感じがしましたね。帰りにも、すっごい勢いで雨が降りだして、「帰れ!帰れ!」と言われているみたいに、もうスコールの様な雨が降ってきて。それが、遠野の町を出たら、ピタっと止んだのですよ。

 

ネムリ堂 え、そういうもんなんですか。すごい。なんか不思議な経験。

 

ymst でも、ほんとそれくらい、あそこは、別世界で、その中でもおしら堂っていうのが、鳥肌のたつような別世界だったんです。おしらさまっていう飾り物があるんですよね、桑の木で出来た、馬の形と女の人をかたどった対の飾り物っていうのがあって、お堂といっても、くねくねと廊下の様なところを歩いて行ったりするのですけれど、お堂の中がそれでいっぱいなんですよ。何体あるか数えきれない、何千とかあると思う。もう壁一面が、おしらさまだらけで。

 

ネムリ堂 それは、あれなんですか。おしらさまを祀っている家から集めたものなんでしょうかね。それとも、もともとそこで祀られているものなのかしら。

 

ymst どうなんでしょうね。遠野って桑の木と蚕が名産になっていて、絹の繭の細工とか、それで繁栄したっていうのも、おしらさまの昔話の中にあって…

 

ネムリ堂 絹の名産地なわけですか。

 

ymst 名産地に「なった」んですね、きっと。お父さんはかなり馬にひどいことをしたんですよ。首を切っただけじゃなくて、桑の木に吊るしたときにもかなりひどいことをして、それで、娘がいなくなったことにすごく後悔して。夢枕に立った娘が、蚕を家に置いておくからそれを育てて桑の木の葉っぱをやってください、て言って、そういう風に伝えたことで、桑の木で絹を作っていく、産業になっていくっていうところで終わっていると思うのですけれど。この産業の繁栄のためでもあると思うんです、このおしら堂って。

 

ネムリ堂 そういうことなんですね。そうですね。

この物語、「天の鹿」なんですけれども、父親の側からすると、大事な娘が神隠しにあった話でもありますよね。神隠しと言うと、実際には、誘拐とか、人さらいや、殺人、怪我で山の中動けなくなって死亡した場合など、苛酷な状況にあるのが現実だったりすると思うのですが、このように、人が忽然と消え去るさまは、どこか、遥かな国への甘美さを感じさせられ、なにか、あこがれをかきたてられるような気が私はしてならないのですね。『遠野物語』には、「おしらさま」のお話の他にも、こういう神隠し譚もいっぱいあると思うんですね。

で、安房さんも、神隠しのお話をいっぱい書かれていたと思うんですけれども、gentle finger windowさん、いかがでしょうか? 安房さんの神隠しのお話って、幾つか思い当たりませんか?

 

gentle finger window そうですね、ネムリ堂さんがよくお好きだとおっしゃられている「銀のくじゃく」なんかそうですよね。あと「火影の夢」とか。あと、私、すっごく怖いんですけど「長い灰色のスカート」もそうですし…。あと考えてみれば、「ハンカチの上の花畑」もそうなんですかね。

 

ネムリ堂 そうですね。あれも神隠しにあって…

 

gentle finger window いなくなって、みたいな感じになってますしね。

 

ネムリ堂 あれも、戻ってくるお話と戻ってこないお話とあって、「ハンカチの上の花畑」はね、戻ってこられるお話としてね。

 

gentle finger window 安房さんの怖いけど面白い話って、この神隠しって、この系統が多いですね。

 

ネムリ堂 そうですね。私、神隠しの安房さんのお話は、すごい好きな話が多くて、他にも「沼のほとり」ですとか、「ライラック通りのぼうし屋」ですとか、あと「だれにも見えないベランダ」なんかも、そうは見えないけど、実は神隠しのお話なんじゃないかな、と思ったりして。ベランダに乗って、どこか遠いとこ、行きませんか?って誘われてそのまま消えてしまうじゃないですか。

 

gentle finger window そうですね、言われてみれば。

 

ネムリ堂 あと、「海の口笛」とか「丘の上の小さな家」とか。「花豆の煮えるまで」の小夜のお母さんも、山で姿を消してしまいますよね。小夜のおかあさんはもともと、山んばの娘ということなので、神隠しとは言わないかもしれないけれども、でも、もしかしたら。「小夜の物語」ていうのは、ほんとの話をおばあさんがしてくれているわけではない、っていうのを小夜は思って話を聞いているわけですよね。だからもしかしてお母さんは、「花豆の煮えるまで」だけのお話の時点では、ほんとに山んばの娘だったかどうかはわからない。「いなくなってしまったお母さん」かもしれない、と思いながら、私は読んでいたんですね。そんな風なことをちょっと思いながら。

 

gentle finger window そうですよね。あと、思い出したのだけど、「よもぎが原の風」とかも、戻っては来るけど…

 

ネムリ堂 うさぎになっちゃう話ですよね。

 

gentle finger window 安房さんにほんと、典型的な、怖いけど面白い話だなっていう気がしますね。この神隠しのお話とか。やはり『遠野物語』の影響を受けていらっしゃるのですかね。どうなんだろう。

 

ネムリ堂 安房さんご自身がご自分のエッセイで、『遠野物語』を自分のタネ本にしてます、みたいなことを書かれていて。なので、『遠野物語』はすごく、良く愛読されていたようなんですね。

 

gentle finger window 私も『遠野物語』好きですし、グリムもそうだし、ヨーロッパの民話みたいなものもすごく小さい頃から読んでいるので、もしかしたら、ベースが同じで、安房さんに惹かれているっていうこともあるのかなって、思います。エッセイを読み通してみても、あ、なんか、読んでいたものが同じ、みたいなことが結構あって、そんなことを思いましたね。

 

ネムリ堂 そうですね。またちょっと、鹿の市のお話に戻るんですけれども、鹿の市、すごく素敵なんですけど、ymstさん、北海道にお住まいならではの、素敵な体験をされたって伺ったんですが、お話していただいてよろしいですか。

 

ymst こちらにいると、まあまあ、あるといえばあるのですけれど…

 

ネムリ堂 そうなんですか(笑)

 

ymst よく行くカフェに行ったときに、お店の中ではなく駐車場にいたら、うちの車に乗せていた犬が騒ぎはじめたんですよね。私その時に、それこそ「天の鹿」を今日のために読んでいて、ぱっと目をあげたら、鹿がぴゅっと横切っていて、それで、ああ、鹿いたな、と思って。これはタイムリーだと思って車からそっと降りてみてみたら、もう鹿だらけだったんですよね。全部で20頭くらいいて。

 

gentle finger window それ、北海道のどのあたりだったら、そんなに鹿が見られるんですか?

 

ymst 支笏湖ってわかりますか? 千歳空港からすぐなんです。なのでもし、北海道に旅行にいらしたら、千歳空港から札幌に出るよりも近いのでぜひ、寄ってみてください。

 

ネムリ堂 ぜひ、鹿の市に連れていってもらえるように(笑) なんか、支笏湖の近くに、意味深な名前の山があるって…

 

ymst 支笏湖ってカルデラ湖で、山に囲まれているのですけれど、支笏湖から見て、ひときわ大きく見える山が、風不死岳(ふっぷしだけ)っていうのですね。「ふっぷし」というのが、アイヌ語が語源で、「トドマツがたくさん生えている」みたいな意味らしいのですが、「ふっぷしだけ」って漢字で書くと、「風」「死なず」、否の「不」ですよね、そう書いて、「風不死岳」って言うのです。

 

ネムリ堂 ああ、そう読むのですね。なんか不思議な名前で。

 

gentle finger window 風が死なない、絶えない、みたいな感じなんですかね。

 

ymst 語源そのものは、トドマツ…なんですけど。鹿は、支笏湖周りはたくさんいるんですけど、その山はヒグマの被害があったような山なんですよね、人が殺られた、本当に死の山って感じで。そこよりも湖を挟んで、こっち側で、20頭あまりの鹿を見たので、この「天の鹿」に出て来る「生きてる鹿たち」に牡鹿は会うじゃないですか、生きてる鹿はちょうど20頭ぐらいいるというような文章じゃなかったでしたっけ。

 

ネムリ堂 そうですよね。すごい。

 

ymst 全部で20頭もいるでしょうか、みたいな文章がありますよね。それが、風不死岳が、なんとなく、はなれ山のような感じに思えて、ここにいるのは、みんな市に行くのかな、と思ったんですけど、そうじゃなくて、生きている側の20頭だったのかな、って。

 

ネムリ堂 「天の鹿」を読んでいるときに、そんな体験をされたっておっしゃってたから、すごいな、と思って。

 

ymst でも、一頭も牡がいなかったんですよね。

 

ネムリ堂 あ、牡と牝と、角でわかるんでしょうかね?

 

ymst ほんとに、見事な角のも結構いるんです。なのに、そのときは一頭もいなくって。それこそ、ゆらりゆらり、と、牡鹿が歩いてくるんじゃないかって。残念ながら、それはなかったんですけれど。

 

ネムリ堂 鹿の市も、「生きている鹿のすることはもう忘れてしまった」という牡鹿のせりふとか、あと、反物屋の鹿は耳に傷がある鹿だったり、ランプ屋は足が悪いやせた鹿だったりして、みんな傷をうけているんですね。だから、鹿の市の鹿たちっていうのは、みんな殺された鹿なんだろうな、というのが思われて、そこに鹿たちが市に行くっていうのは、そういう世界なのかなあ、と思いながら読んでいたのですけれども。

 

gentle finger window 私、さっきおっしゃっていた生きた鹿の群れ、っていうんですかね、そこを読んでぞっとしたというか。「天の鹿」って私にとってはすごい怖いお話なんですね。天の鹿というのが死んだ鹿だっていうのが、ここの生きた鹿に会うところまで、私わからなくって。このあたりで、はじめて、生きた鹿、死んだ鹿とか、はっきりしてくるじゃないですか。20頭くらいの群れが、生きた鹿が行く、っていう言葉がすごく怖くって、ぞっとしたっていうか。

 

ネムリ堂 すごい怖いお話でもありますよね。

 

gentle finger window 私、そもそも最初に、清十さんが鹿の市から帰って来た時に、「お前の娘たちの中でキモを食べたのは誰だ」って鹿が最初に聞くじゃないですか、あそこのシーンで、わ、怖い、と思ったんですね。

 

ネムリ堂 「キモ」っていう言葉で…

 

gentle finger window 「キモ」って言葉で聞くところにすごくぞっとして、最後にみゆきに、「お前をみつけた」みたいに言うじゃないですか。そこで、わ、怖い、みたいな。はじめて読んだ時は、ずっと怖い話、怖い話、と思っていたのですけど、最近、充分おとなになってから読んで、でも、たぶん、みゆきと天の鹿のラブストーリーなわけなんですよね、ある側面から見ると。

 

ネムリ堂 私はそう読みました(笑)

 

gentle finger window では、これはハッピーエンドの話なのかなっていう。

 

ネムリ堂 うーん…、ハッピーエンドとまでは言えないのかもしれないけれど…っていうことですよね。

 

gentle finger window いいお話なのか、怖いお話なのか、悲しいお話なのかわからない。安房さんはそこらへん、なんていうのでしょう、読む人に任せてくれている。

 

ネムリ堂 そうですね、最後に清十さんが、おうおうと叫びながら、雲を追いかけて行くというところが、なんとも悲しいお話というか、

 

gentle finger window だけど、ふたりにとっては、幸せなお話っていうのかもしれないし。なんて言っていいのか、不思議ですよね。そこが魅力というか。

 

ネムリ堂 そこが魅力ですよね。安房さん、「天の鹿」についてですけれども、「贖罪の話みたいな感じです」と書かれているのですね。

(後記・偕成社『現代児童文学対談9』・偕成社文庫『北風のわすれたハンカチ』巻末にも収録したインタビューに掲載。インタビュアは神宮輝夫さん。同じ対談で、「天の鹿」について、安房さんは、「『なめとこ山のくま』の猟師と狩られるものとの関係みたいなものに影響を受けているかもしれません。」とも書いています。)

ただ、私は、単なる贖罪の話、父親のいわゆる狩人としての罪を娘が贖うといった単純な話にはならなかったんじゃないかな、と思っていて、それを何か超えた、なんともいえない、なんでしょうね、それがなんだか私にもわからないのだけれども。

 

gentle finger window うん、うん。でも、わかります。それと、キモを食べるって、なんか、心を奪われる、っていう感じで。やっぱり恋愛のストーリーなのかなって、思う時もあって。

 

ネムリ堂 鹿のキモって、要するに、鹿笛で呼びよせられたわけだから。鹿笛って「恋」の声じゃないですか。その恋の気持ちそのまま殺された鹿のキモを食べたっていうか。

 

gentle finger window 心を奪われたじゃないけど、なんか…。安房さんはそこまで意識されて書かれていたんですかね。

 

ネムリ堂 意識されていたかはわからないけど、でも、実際はそうですよね。まあ、「ハート」なわけですよね。ハートっていうか、ハートは心臓だから、肝臓と違うけれど、要するに「肝心」という言葉にあるように、キモと心臓と両方を表す通り、すごく体の中心だった場所ということで、ハートみたいな、「たましい」と置き換えられるようなものが「キモ」なのかなと思って。

 

gentle finger window そこを食べたみゆきを探していたのですものね。

 

ネムリ堂 くらやみの谷でたったひとりで泣いているひとがいて、そのひとのところに私は行こうと思う、って、みゆきが言うじゃないですか。その「くらやみの谷」っていうのが、どう、これを解釈していいのかなっていうのがわからなくて、なんていうのでしょう、話に深みを与えている言葉だなあって思って。

 

gentle finger window そこをどういう意味で書かれているのか、すごく深いような…

 

ネムリ堂 聖書の言葉に、そういう言葉が無いのかな?って検索してみたんですね。そしたら。「くらやみの谷」とは書いてないのですけれど、日本では「死の陰の谷」って訳されている言葉がありまして、それってもとは「闇の谷」っていう意味らしいんですよ。

旧約聖書詩篇、23編4節に、「たとい 我 死の陰の谷を歩むとも/わざわいをおそれじ/汝 我とともにいませばなり」という一節があるらしくて。おそらく安房さんは聖書の言葉に精通されていたと思うから、そういうところから発想されているのかな、と、思いながら読んでみたりもして。

 

gentle finger window そうかもしれないですね。その言葉だけ、ふっと浮き上がってくるんですよね。子供向けじゃないっていったら、あれなんですけれども、ここだけすごく、深くなっている気がして。ここだけが違うレベルの言葉な気がしていたのですけれども、もしかしたら、聖書の言葉から来ているのかもしれないですね。

 

ネムリ堂 かもしれないし、そこを、こういう風に、安房さんの作品の中にとりこんで、表現しているのかなって。キリスト教に私は詳しいわけではないので、話していいのかわからないのですけれども、キリストは、人間の罪を背負って、その死はその身をもって人間の罪を贖った、そういう宗教だと思うのですね。で、みゆきが、自分の身を与えてそのまま天に昇って行くというのが、キリストの昇天とも重ね合わさってくるのかな、っていうのがあったりして。

 

gentle finger window 安房さんがそれを書き込みたかったというよりは、安房さんの中に沈殿しているっていうか、蓄積されている、グリムも『遠野物語』もそうだし、聖書も、安房さんの中に蓄えられたから生み出されたものだから、読んでいける、感じていけるのでしょうね。

 

ネムリ堂 うん、あえて、書いたわけじゃないのでしょうね。

 

gentle finger window ネムリ堂さんが前におっしゃっていた、古事記の「よもつへぐい」を、あえて、安房さんはそれを書き込みたいと思ったわけじゃないのかもしれないけど、伺って、そうなのかも、と、私、すごい納得したんですよ。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。でもね、よもつへぐいについては、安房さん、結構意識的に描かれているみたいで。

 

gentle finger window そうなんですね。

 

ネムリ堂 1981年の、『せんばい』という雑誌(たばこの専売公社に安房さんのお父さまはおつとめだったので)で、お父様の部下にあたるかたと対談された記事が載っているんですね、それの中で、

古事記に、よみの国へ行ってそこの食物を食べたら、もうこの世に戻ってこれないというお話があったと思いますが、異次元の世界に行って、そこの食物を食べるということは、大きな意味のあることだと思いまして、私はよくそういう書き方をします。」という風に書いているんですよ。だから、よもつへぐいという言葉は使ってないけれども、このことについては意識的に作品に書かれているということがここでは、ご自分の言葉でおっしゃっているというのを発見しました。

 

gentle finger window 「天の鹿」について書かれたのですか?

 

ネムリ堂 そうですね。「天の鹿」について、書いている一文なんですね。

 

gentle finger window まさに、よもつへぐいですものね。鹿の市で食べるものはそうですよね。雑炊にしろ、金の梨にしろ。

 

ネムリ堂 雑炊と金の梨を食べて、天の鹿となっちゃうということで、三枚の金貨の最後の金貨で買うまっ白な桔梗の花は、花嫁さんのための白い花であるのと同時に白い死に装束でもあったりして、という、そういう色んなイメージが重ねられている感じがして。

 

gentle finger window ヨーロッパの古い民俗、古事記まで、活かされているっていうのが、すごいですね。童話、物語だけど。

 

ネムリ堂 物語の中にいろんなものが融かしこまれている。そうなっていますよね。

結構、安房さん、よもつへぐいのお話をいっぱい書いておられるんですよね。「緑の蝶」(1973)も、「ぼく」が緑色にあわだつ飲みものをさしだされるんですけれど、それを飲んじゃったらおそらく、よもつへぐいになっちゃうんじゃないかな、て。

 

gentle finger window 異界の飲みものですもんね。そうとう怖いですけど。あれも。

 

ネムリ堂 怖いですよね。あれを飲んじゃったら、どんな話になるのかなって。

 

gentle finger window たぶん、連れていかれてたんですかね。

 

ネムリ堂 連れていかれちゃいますよね。「火影の夢」(1975)も、よもつへぐいなんでしょうね。魚介のスープに、とりこまれていくじゃないですか。それで結局異界に、連れてかれて、最後、火影の夢の中の人になってしまうという、そういう終りで。

 

gentle finger window 「木の葉の魚」(1977)も、じゃあ、そうなんですかね? 

 

ネムリ堂 「木の葉の魚」。そっか。「木の葉の魚」は考えたことはなかったですけど…

 

gentle finger window 魚を食べて、食べて…

 

ネムリ堂 食べて、食べて、結局、海の底に沈められちゃいますものね。

 

gentle finger window 最後、のぼっていった先がどうなっているのかわからないのですけど。

 

ネムリ堂 うーん、のぼった先がね、魚として食べられてしまうのか、それとも、救われるのか、わからないままの終わり方でしたよね。

 

gentle finger window 不思議なお話です。…そうか、よもつへぐい的なお話が多いんですね。神隠しと同様に。

 

ネムリ堂 うん、「小鳥とばら」(1979)なんかも、結局、食べたら恐らく、ばらの木になっちゃうっていうので。ただ、よもつへぐいなんだけど、そこで少年の助けで戻ってくるんですよね。なんかね、80年代以降の作品ていうのが、異界の食べものを食べても、戻ってくる作品が多くなってくるんですよ。

 

gentle finger window 「ハンカチの上の花畑」(1973)もそうですね。菊酒を飲んで…

 

ネムリ堂 飲んで、飲んで、飲むんだけど、あれは、戻って来られるという。「月夜のテーブルかけ」(1981)なんかも、ゆきのしたホテルの会員証を持ってたりして。だから、行き来自由になってくるんですよね。

 

gentle finger window なんででしょうね。子どもに向けて、なんでしょうかね。子どもをかなしませないように。

 

ネムリ堂 子どもを読者として、ちゃんと意識して書くようになりました、というようなことを、作品集『遠い野ばらの村』(1981刊行)以降くらいから、考えている、って書かれていたから…

 

gentle finger window 怖がらせてばっかりでなく、ハッピーエンド的な要素も、みたいな…

 

ネムリ堂 安房さんの中でそういうものでないものを書きたい、という欲求がたかまっていったのかなあって。「風のローラースケート」(1984)ですとか、「コンタロウのひみつのでんわ」(1983)ですとか、「ねこじゃらしの野原」(1984)ですとか、そこらへんもみんな、食べるんだけど、行き来自由みたいな。そういう感じがします。

 

gentle finger window 「みどりのはしご」(1979)とかもね。

 

ネムリ堂 「みどりのはしご」! そうですね、食べるんだけど、戻ってきますよね。いつでも行けそうな感じですよね。

 

gentle finger window 「花びらづくし」(1982)とかもそうですね。

 

ネムリ堂 「花びらづくし」も、戻ってきますもんね。怖い思いをするけれど。

 

gentle finger window あの「市」もね…

 

ネムリ堂 「市」の話としては、「天の鹿」の鹿の市と、「花びらづくし」の桜の市がすごく、印象的ですよね。

 

gentle finger window イメージとしてすごく綺麗なんですけど、怖いみたいな。

 

ネムリ堂 あと、「鳥にさらわれた娘」(1982)も、「市」ではないんだけど、シギのお店がみかん色のあかりでぽうっと浮かんでいて、そこに魅力的な品物が並んでいるっていうのが、なんか安房さんの書く「市」の系譜というか。

 

gentle finger window 安房さんの書く「市」って、どこでどう得ているイメージなんですかね。今、市が立つところって、ものすごく観光的な?? 今、普通に市って立っているものなのかしら。

 

ネムリ堂 「市」について、アロマアクセサリーさんにお話してもらってもよろしいでしょうか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 途中、いくつか、話したいことがあったので、順番にお話してもよろしいでしょうか。

遠野物語』のお話なんですが、「ききょうの娘」(1982)を読んで、『物語の食卓』(※ネムリ堂とのコラボ冊子。安房作品に登場の食を再現)のお料理を作る時に、そのお話っていうのが『遠野物語』の椀貸し伝説っていうのですかね、あれとかかわりがあるなあと思って。「ききょうの娘」も、「山から来た娘さん」で、山に帰っていくので、神隠しとはちょっと違うかもしれませんが、椀貸し伝説のお椀を貸してくれる元の場所は隠れ里だったりするので、柳田国男は最初は山の民族に非常に惹かれていまして、『山の人生』の中で、神隠しに遭いやすい性質っていうのは人にはあるんだ、っていうことを書いているんですね。

実際に自分が、山の中に、紛れてしまって、気がついたらなんとか帰ってこれたけれども、自分はもしかしたら、神隠しに遭いやすいたちなのかな、と、思ったということを書いていまして、安房さんももしかしたら、自分のことを、そのように思っていて、「天の鹿」の、みゆきに自分を重ねるような、なんか、ふらっと、ふわっと、現実とは違うところに怖がらずに行ってしまうようなところが自分にはある、と思ってらしたのかなあと、それでその、お友達(生沢あゆむさん)が、安房さんをみゆきに似てるっておっしゃったのかなあ、と、調べていくなかで思いました。

遠野物語』やグリムを借りている、ということ、グリムですけれども、やっぱりグリムは西洋のもので、キリスト教が元にあり、人間が中心だと思うんですよ。ただ、日本の場合はやはり、八百万の神なんで、人間も、その中のひとつ、というのですかね、西洋の話では蛙が王さまに戻ったりとか、「美女と野獣」の野獣が人間に戻って結ばれるけれども、安房さんの話では、安房さんが意識していたかどうかはわからないのですけれども、人も八百万の神もみな、同じような立場だったら、同じようにふわっと行ってしまっても、自然な、安房さんにとってのメルヘンの世界といった感じとして考えたのかな、と。

 

ネムリ堂 日本と西欧の違いですかね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida あと、堀辰雄が、「風立ちぬ」で、「死の陰の谷」って確か、最後の頃の書いていたかと。

(後記・アロマアクセサリー&香りと文学m.aidaさんより、補足あり。「風立ちぬ」の最終章は「死のかげの谷」。内容は、主人公が教会の「弥撒(ミサ)」に出たり、リルケの「レクイエム」を読んだりしながら死者(恋人)への思いをめぐらせている、とのこと)

 

ネムリ堂  使っていたのですね!! 安房さん、堀辰雄、お好きでしたものね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida はい。安房さん、もしかしたら、そのへん、言葉として、安房さんの中にあったのかな、と思いました。

 

gentle finger window なるほど。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida たぶん、親しんでいた中で、自分のイメージとして、あったのかなと、思いました。

 

gentle finger window 安房さんの大好きな軽井沢の作家ですものね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 高校生の時から、「堀辰雄論」書かれてますよね。すごい立派なものを。

「市」のお話は、日本で「マーケット」「マルシェ」、海外のそういうのとはちょっと違う意味合いが「市」にはあったと思うんですけれども、これは調べてみると、本当の昔は、人の出会いの場であったのですよね。

海柘榴市が本当に最初で、そこは、男女の出会いの場でもあるし、もちろん物を商う場でもあったですし。更に市はその土地神を祀る場所でもあった、神聖な場所であったんですね。すごくいろいろな意味合いがあって、このすべての意味合いがこの「天の鹿」にはあるなと思ったんですね。

鹿の市は、死者の市、まあ、死はハレとケでいえば、「ケ」であるのかもしれませんが、でもそこから天にいくのであれば、現実とは違う特別な場所という意味で、そういう場所でもあるし、そこであの、みゆきと牡鹿が無事結ばれていくような「門出」の場?一種の。結婚するというのは、門出でもありますし、新しい世界へ行くということでもありますよね。

その場合、新しい世界が「天」の世界で。で、人間の現実の世界ではないのですが、でも天にいけるということは、牡鹿にとってはおめでたいことですよね。

 

ネムリ堂 聖なる結婚みたいなね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そういう門出の場であるし、もちろん物を売る物流の場でもあるし。そういった意味で市と言うのを舞台にしたっていう意味は、もちろん安房さんがそこまで考えていたかはわからないのですが、聖と俗とか、生きているものと死んでいるものが混じり合うことのできる、特別な場所という設定をしたのかな、と思いました。

 

ネムリ堂 出会いの場所というかね。いろんなものが出会う場所…

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね。やっぱりもしかしたら、日本でも、昔、神社の市とかでは、こっそり神様が来ていたかもしれないですよね。

やっぱりいろんな要素を自然に安房さんは、読書を通して、自分の中に蓄えていたんですね、ほんとに、ご自分の中のファンタジーやメルヘンの摂理として、ぽっとこう自然に、でてきて、それが、不思議な味わいになって、何かおこるものになっていったのかな、と。

安房さんは「メルヘンの摂理」という言葉を使ってらっしゃるので、不思議なこととか魔法とかをいちいち科学的に解説しなくてもそれは、まあそういうものでというようなことをおっしゃっていたような。それは物語の中ではとても大事なことだと思うんですよね。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。なんか、「市」について、すごく深い感じが。安房さんの作品の深さがはっきりわかるような感じで。ありがとうございます。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida こちらこそありがとうございました。

 

ネムリ堂 「市」。鹿の市、すごく魅力的なんですけれど、私だったら何を買うかな、そんなことも、俗っぽく考えちゃったりしたんですが、皆さん、いかがでしょうか。鹿の市で買いたいものとか。私だったら、たぶんみゆきみたいに達観できなくて、血の色の赤いルビーとか、若葉の色のひすいの帯どめとか、そういうのに目移りしちゃうんじゃないか、と。そういうところもどきどきしながら、「天の鹿」って読んでて、なんとも言えぬ、こう心をかきたてられるものっていうか、そういうのも出てきますよね。

 

gentle finger window そうですよね。私はやっぱ、紫水晶の首飾りですかね…

 

ネムリ堂 ね、買っちゃいますよね。

 

gentle finger window 私にとって「市」っていうのが、実は私、祖母が三重県四日市というところにいて、小さい時から祖母に連れられて、朝の市に行っていたのですけれど、四のつく日に市が立つんですね。

で、安房さんの書かれる鹿の市とか、花びらづくしの市とかと違って庶民的な、普通に食べものとか洋服とかを売り買いする市なんですよ。だから、なんていうのか、安房さんにとっての市と私にとっての市が違うんだな、というか。そこも、こう「市」を読むと感じていたことなんです。

 

ネムリ堂 すごく雑多な市だったのが、安房さんの手にかかるとすごく神秘的な市に変身してしまうという…

 

gentle finger window 美しいイメージの市にね。安房さんはどこの市を題材にしたんだろう、物語を作られたんだろうっていつもそれを思っていて、どこへ行ったらこんなに綺麗な市にであえるんだろう、みたいな。

 

ネムリ堂 なんか、さまよいこんでみたい気もしますよね。怖いけど。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 桜の花びらの枕とか、すごくいいですよね。

 

gentle finger window ね。「花びらづくし」の市も本当に綺麗ですよね。

 

ネムリ堂 綺麗ですよね。あと、食べ物が美味しそうですよね。

 

gentle finger window そうそうそう、食べ物が美味しそう。

 

ネムリ堂 私だったら、食べ物も買っちゃうなあ。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida お洒落して出かけていくんですよね。

 

ネムリ堂 お洒落してね。山の者でも、認められないと行けない市で、まだ何年目だからまだ行けない、みたいな、心待ちにしている市っていうのがすごい。

 

gentle finger window 招待されないと行けないんですものね。なんか、「花びらづくし」って、ももいろっていうか、ピンクってイメージで、鹿の市は青いっていうイメージで。私の中でなんですけど。なんだろう。

 

ネムリ堂 ああ。はなれ山が青い光でひかっているっていうシーンがあるから、そこからですかね。それから、市が、ほたる色の光に満ちた空間で、て、いうふうに書かれているから。

 

gentle finger window なんか、夜っていうイメージがあるのかな。

 

ネムリ堂 なんか、こう、夜空に反物の花びらが散っていってしまうとか、そういうイメージもすごいなあって。

 

gentle finger window 本当に、安房さんの市は綺麗だなあって、私の市と、実際に行って全然違うなって。

 

ネムリ堂 でもその市も、実は一皮むけると、なにかあやしい市だったかもしれない(笑)

 

gentle finger window いつも帰りにみたらしだんごを買ってもらえるのが、たのしみでついていっていたのですけれど。

 

ネムリ堂 ああ、そうなんですか。へえ。でもそういうなにか、買ってもらえるわくわく感ていうのが、鹿の市に通じていくのじゃないですか。

 

gentle finger window いまはもう、無いんですよ。昔はその市、四の日に立っていたのですけど、今は綺麗な建物の、本当にスーパーマーケットみたいになってしまって、四じゃなくても、買い物できるようになってしまっていて。昔、安房さんが子どもの頃過ごされた頃にはもっと市が、身近なものだったのかもしれないし、美しいものがあったのかなあとか。

 

ネムリ堂 昔はそういう、朝市とか、夜の市とかね、もっと身近だったかもしれないですね。

 

gentle finger window 今、「市」っていうと、ほんと、観光地にあるようなね。

 

ネムリ堂 観光と同じものになっているというかね、生活とはちょっとかけ離れてしまったというか。

 

gentle finger window もし、ライラック通りの会でもなんでも、今、市が近くにあるかた、いらしたら、お話を聞いてみたいです。

 

ネムリ堂 聞いてみたいですね。私も、母がよく、房総のほうに行くのですけれど、そっちのほうでよく朝市がやっていて、それで、魚、お刺身、魚まるごと買ってきたりとか。

 

gentle finger window 今でも普通にあるんですか。

 

ネムリ堂 普通にありましたね。勝浦のほうかな。勝浦の方まで、朝市があるからちょっと行ってくる、て、魚をいっぱい買ってきたりとか。

 

gentle finger window 東京でも街中で、ヨーロッパのお洒落なマルシェみたいな、ありますけどね、青山とかね。あれとは全然違う感じですかね。安房さんの市とは。

 

ネムリ堂 ああ。なんか、骨董市のわくわく感と似てません? 骨董市に色んな雑多なものがあるんだけど、いわくがありそうなものが売ってたりして、みたいな。

 

gentle finger window 確かに。骨董市でしたらありますもんね、今でも時々。

 

ネムリ堂 私も骨董市、好きなんですけど。(笑)

そうですね。あと、安房さんの作品の中で兎の呪文っていうのが出て来るんですけど。足もとから兎の呪文が、わやわやとわきあがってきましたっていう一文があって、この兎の薄気味悪さっていうのが凄いな、と思っていて。「天の鹿」の中にあるんですけどもね。この得体のしれない兎を、一作だけで使っちゃって、他の作品には登場させないっていうのが、すごい潔いなあ、と、と思って。

 

gentle finger window なんか安房さんの中の兎、「初雪のふる日」(1977)もそうですし、「よもぎが原の風」(1982)もそうですし、なにか、兎が不思議だったり、怖いところに連れていかれるイメージが安房さんのお話にはあるんですけれど。

 

ネムリ堂 言われてみれば、そうですね。兎ってかわいいだけじゃなくて、そういう怖いものとして安房さん書いていますよね。

 

gentle finger window どっかに連れていかれるっていうイメージが。そういう意味でこの、呪文ってなんとなく似たような不気味な感じ、薄気味わるい感じ。

 

ネムリ堂 あ、そっか。私、そっちの兎と結びつけないで考えていました。

 

gentle finger window 兎、私の中で可愛かったのが、安房さんの作品では怖いなっていうのがずっとありました。

 

ネムリ堂 怖いお話が多いですよね。なんか、言われてみると。

 

gentle finger window どっかに連れて行かれるのね、一見可愛いのだけど、どっかに連れて行かれちゃう、ついていくと。

 

ネムリ堂 誘惑者なんですかね。

 

gentle finger window そういう感じがあるんですね。

 

ネムリ堂 あと、安房さんの作品の中で、食べ物がすばらしく美味しそうなんですけれども、アロマアクセサリーさん、食べ物がたりをしてくださるって…どうでしょう。「天の鹿」における食べ物って。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida まず、雑炊の話なんですけれども、安房さん、お料理の本もよく読んでらっしゃるって、エッセイで書いてますよね。その中に、『吉兆味ばなし』が入っていたのですけれども、おじやや冷ごはんや雑炊のつくり方が書いてあるんですが。これちょっとわき道に外れてしまうんですが、挿絵になんと、陶器のゆきひら鍋が、描いてありまして。安房さん、これから、「ゆきひらの話」(1981)を、考えたのかなあと思ったりなんかして。

 

ネムリ堂 そこから、考えられたんですかね。私もこの間、「天の鹿」の掲載雑誌の調べものをしていて、安房さんの作品の載った『母の友』の表紙がゆきひら鍋だったんですよ。だから、私もあれー?と思って、安房さん、そこから??と、私も思ったんだけど…。もしかして、それだけ、ゆきひら鍋は、身近でありながら、忘れられてゆくようなそういうものだったのかしら。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida たぶん、日常的におかゆを作るような。でも、今だったら、「ゆきひら」というと、金属のゆきひら鍋を思い浮かべますよね。

 

ネムリ堂 今だったら、そうなっちゃいますけどね。昔は土鍋でしたよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そんな感じでいろいろ、安房さんの読んでいた本を読んでいくと、あ、ここから想像したのかなっていうのがいろいろあるんですが、「天の鹿」に関しましては、この雑炊の具材が松たけとか…

 

ネムリ堂 松たけですよね。凄い贅沢な雑炊ですよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 確かに安房さんて、上田市にいたりとか、軽井沢によく行ってらしたので、長野って松茸山がありますよね。だから、軽井沢にいらっしゃっていたのは夏だけだったみたいですけど、もしかしたら地元の方に送ってもらうとか…

 

ネムリ堂 ああ、いいですね。松たけの入った雑炊、食べてみたい。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そんな感じで実は安房さんの他の本を読んでいくと、信州の食材が大変よく出て来るんですね。私も、『物語の食卓』で食を再現するにあたって、『信州のふるさとの食材』(武田徹・監修 長野県商工会女性部連合会・編 ほおずき書籍 2005年刊行)を参考にしたのですが、あ、これも、これも、っていうくらい載ってまして、都会にいたら目にしたことはないであろうものも、もちろん、本も参考にしたとは思うのですけれど、もしかしたら、地元のスーパーで目にしたりとか、したのかな、と思いながらいたんですが、この「天の鹿」に関しては、この雑炊が、秋の恵み満載ですよね。松たけに栗に…栗を雑炊に入れるんだなあって。

 

ネムリ堂 ね、栗が入っているんだなあって。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 実際作ってみたら、それなりに美味しかったんですけれど、やっぱりこれ、ご馳走ですよね。この雑炊は。だからやっぱりこれは、お祝いの席のお料理?かな、と思ったんですね。二人で食べあって…。松たけ、お祝いの意味を込めて豪勢にしたのかなって思いました。普通ではなかなか作らない雑炊。

 

ネムリ堂 なかなか、松たけ、入れませんよね。栗もね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 手に入らないですし、栗は、ちゃんとお料理にするには結構てまひまかかりますので、茹でたりですとか、皮を剝いたりですとか。これも山のご馳走ですよね。あと、梨がでてきますよね。すごい立派な。これは、なぜ梨なのかな?っていうのを思ったんですけれども、ネムリ堂さん、これはなぜ梨は梨なんだと思いますか。

 

ネムリ堂 私、なんにも考えてなかったですけど。(笑) たぶん、金色でこう、大きな梨っていうのが「月」のイメージと重なっているのかなあって思ったんですけどね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida なるほど。やっぱり、こがねいろ、というか、おめでたい??

 

ネムリ堂 「のぼりたての月のようなくだもの」って書かれていますけど、なんで梨なのかまでは考えなかったんですけど、やっぱり季節が秋ということで、そこから梨がでてきたのかな。

(後記・エデンの木の実であるとされる知恵の実、「りんご」と似て非なるくだものという意味合いもあるのかも??)

あと、それをね、こうまるごと、皮ごと食べちゃうのですよね。それがこう、すばらしくとびきりみずみずしい梨っていうのが、なんかもう、これも食べてみたくて仕方のなかったくだものなんですけど。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida やっぱり、まるごとくだものをいただくっていうのは、贅沢なことではありますよね。

 

ネムリ堂 そうですね。それから、そんな大きな梨っていうのが、そもそも当時とれなかったんじゃないか、っていうぐらい、みごとな梨だったんじゃないかなと思って。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね、特別な場所で、特別な気持ちでいただくくだものっていうことだったのですかね。

 

ネムリ堂 あと、山ぶどうのお酒も特別なものですよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね。あれもなかなか不思議な場面ですよね。時間を超越してしまうということですよね。ぶどうが一瞬でお酒になって。

 

ネムリ堂 そのお酒を飲むことが…っていうことを、『物語の食卓』でアロマアクセサリーさん、書かれていたじゃないですか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そこもやっぱり、現実から異世界っていうか、時空の歪みみたいな、特別感があるというか、やっぱりいろいろなところに特別感がちりばめられているな、と。

 

ネムリ堂 なんか、梨を食べると、それまで聞こえなかったことが聞こえるようになるって、そういう風に書かれていて、それで、たぶん、メタモルフォーゼしていく感じがね、なんというか安房さんの筆の見事さと言うか、そこにすごい惹かれました。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですよね。食べるという身近な動作で。それにしかも梨っていうのも、この梨は特別な梨ですけれども、くだものとしては身近なものではありますよね。そういったことで、特別感をだすというのは、安房さん、すばらしいな、って唸らされる場面だって。ネムリ堂さん、他には食べ物では?

 

ネムリ堂 食べ物。そうですね。やっぱり「天の鹿」だと、金の梨と、きのこの雑炊と、山ぶどうのお酒、っていうこの三つが、なんとも美味しそうに書かれていて、そこにもう…。…ただ、私がもし、金貨を使えるんだったら(笑)たぶん、これは買わなかったんだろうと思うと…自分が俗っぽいなと思っちゃうんですけど。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida いや、目移りしちゃいますよね。

 

ネムリ堂 なんかその、骨董市に行ったときのドキドキわくわく感というか、その感じと鹿の市が私の中では一緒になってくるんですけれども。なんかキラキラしたものを買っちゃうのじゃないかな。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 私の親が福井の山の方で、そこは結構有名な朝市があるんですね。山の奥なので、それこそ、山菜ですとか、安房さんのそういう和風の食べものに出て来るようなものが、普通に季節ごとに売っていまして、その様子を見ていると、実際山に行けば、こういうものが採れて、安房さんのお話に出て来るようなお料理が作れるなって思いながら、お話を読んでいます。

 

ネムリ堂 へえ。そういう市も実際にね、経験されているっていうのが、なにかすごく、いいなあって。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida またたびですとか。もちろん一般の人も買ったりする場所もあるんですよ。観光向けのと、地元の人が買う市もあって、そこに行くとまたちょっと違うものが売っていたり。

 

ネムリ堂 そうなんですね。なにか、特別なものが買えちゃったり。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうですね。日持ちがしないから持ち帰れないものだとか、町の人だと、これ、どうやって食べるの?というようなものだとか。栗をカチンカチンにしたものだとか、昔の兵糧食みたいなものですよね。

 

ネムリ堂 ああ、なにか、チョコレートみたいな味がって。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida そうです、そうです。昔の武将が携行食として持っていたもので。実際は固いので、ほんとにお料理するのは大変なんですが、そういったものがまだ、残っている。普通のお店に。

 

ネムリ堂 そうですか…。

あと、この牡鹿なんですけれど、牡鹿がなんともいえず雄々しいなっていうのがあって。牡鹿の雄々しさ、なんかすごい、安房さんの作品の中でこれだけ、素敵な男性ってなかなか出てこないんじゃないかと思うんですけどいかがでしょうか。「三日月村の黒猫」(1986)の黒猫もなかなか素敵だと思うんですけど。なんか「鹿は大きな目をふっとうるませたのです」っていうところなんか、私、もうどきっとしちゃって。変な話ですけど。

 

gentle finger window なんか人間の男の人は結構、弱いっていうか、ちょっと…

 

ネムリ堂 ちょっと線が細いんですよね。なんか薄情だったり、「熊の火」(1974)の小森さんみたいな。

 

gentle finger window 逆に、動物の方が…

 

ネムリ堂 そうですね。なんともいえず、雄々しくて。

なんか天の鹿になるための条件と言うのが、キモを食べた娘に会うことと、その娘が優しくしてくれることと、お酒を半分ずつ一緒に飲んで道づれになってくれることと、って書かれているんですね、それで、アロマアクセサリ―さんがそのことについて、『物語の食卓』に書かれていたかと思うんですけれど。お酒について。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida はい。あれはやっぱり、三々九度かなって思いましたね、お酒を飲むシーンていうのは。それによって願いが叶って、二人そろって、天の世界に行ける、すごい神聖な儀式の様なもの?

 

ネムリ堂 そういうものが、隠された描写としてある感じがしますよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida まさしくそうだと思いました。その場面があったから、最後にちゃんとつながっていくっていうか、説得力がすごく、これでこのふたりが見事願いが叶って結ばれて、みゆきのほうも、「この人」って決めているって言ってましたものね。

 

ネムリ堂 そうですね。昔から、あなたのことを知っていたという気がする、このひとが自分の探していたひとだったんだ、と言うようなことを書いていますよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida それでついていったわけですよね。そういうちょっとしたこともすべて、ちゃんと物語の中で活きているというか、すばらしいなって。破綻しないで、ちゃんと最後まで。この牡鹿も、二番目の娘さんのあやさんのときは、「生きた鹿のすることはもうわすれてしまった」とかちょっと哀愁を帯びているんですよね。でも、最終的には自分の願いまで頑張ってますよね。

 

ネムリ堂 時系列で見ると、最初の一年で三人、清十さん連れて行って、一番目のたえと、二番目のあやを続けて連れて行くじゃないですか。でも、三番目のみゆきを連れていくまで、一年かけているんですよね。それだけ、キモを食べた娘に会えなかった落胆が大きかったんだろうし、みゆきが実際年頃になるのも、待たれてたのかな、っていうのもあるし。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida それはあると思いますね。

 

ネムリ堂 それでは、だいたいそろそろお時間になると思うのですが、他に何かお話ありますか。あ、そうだ。鹿のお話について、言うのを忘れてました。

安房さん、鹿と人間の婚姻の話を他に、二つ書いておられるんですよね。「あるジャム屋の話」(1985)と、「野ばらの帽子」(1971)なんですけれど。あと、小夜の物語の、「風になって」(1991)というお話の中でも、わらび山での白い鹿の結婚式のエピソードがあったりして。安房さんにとって、鹿は神聖な動物として描かれているのがあるなあっていうのがあります。なんか、ロマンチックな結婚、婚姻のイメージと結びついているのかなって。

他になんか、ありますでしょうか。

 

ymst ちょっと雑学なんですけれど。鹿笛のことなんですけれど、私の友人が鹿撃ちなんですよね。

 

ネムリ堂 すごいですね。北海道…ならではの…

 

ymst 今朝散歩に出たら、その友人のばったり会ったので、あの、「鹿笛って使う?」って聞いたんですよね。そしたら、「使う、使う」って。で、「鹿笛にもうまいへたってあるの?」って聞いたんですよ、清十さんは鹿笛の名人ということだったので。そしたら「ある」って。なにがうまいかっていったら例えば楽器みたいにメロディがあるとかね、鹿の声にそっくりとかじゃなくて、鹿笛を鳴らしたら鳴き返しを待って、会話するんですって。

 

ネムリ堂 じゃあ、キャッチボールみたいに…

 

ymst それで、だんだん距離が縮まってくるんですって。清十さんが持ってたのは、牝鹿の鳴き声にそっくりの鹿笛ですよね、それで、遠くにいる牡鹿が来る。その求愛に応えるのに来る。その友人が言うには、牡鹿バージョンと牝鹿バージョンの笛があるのですって。

 

ネムリ堂 そうなんですね。そっか。牡鹿のバージョンと、牝鹿のバージョン、笛が違うってことですか? 

 

ymst 声が違うんですね。

 

ネムリ堂 声が。笛は同じだけど、旋律が違う?

 

ymst 笛が違うんです。ビイーみたいな音がなるのだけど、音が違うのか、笛が違うのですって。で、友人が使っているのは、牡鹿なんですって。牡鹿を呼び寄せるために。それはどうしてかっていうと、牡鹿の鳴き声の笛を吹くことで、牝鹿に「俺はここにいるぞ」って「牝鹿寄ってこい」って、いう風に言うのですって。それを聞いた牡鹿が、闘いを挑みに来るのですって。

 

ネムリ堂 あ、そういう鹿の鳴き方もあるんですね。

 

ymst そうなんです。だから、牝を呼び寄せるといために鹿笛を吹くっていう企みで、牡鹿を期待しているっていう

 

ネムリ堂 そうなんですね。なんか、すごい貴重なお話。

 

gentle finger window 鹿笛聞かれたことってありますか。どんな音がするんだろう。

 

ymst YouTubeで聞けます。友人にYouTubeを、教えてもらって聞いたのだけど、まさに、最初のね、犬を使わないで、秋の日暮れにね、出かけて岩の陰にかくれて、笛を吹きました。みたいな感じで木の影に隠れて、自分は動かないで、笛吹いてみます、ビイーって吹いて、しばらくじっとするんですね。鹿が来て、あ、これぐらいの距離にいる、ていうことが分かって、そうっとこっちからの距離も縮めて、鳴らしてみたら、今度はこれくらいの距離にいる。で、そのうち、足音がしてくるとか、もう、姿は本当に見えないんだけれど、保護色も素晴らしくて、本当にもう、神秘的と言うか、あ、ここまで来てる、っていうのが、わかるんですよ。あと、なんだか鹿の気配がするから、ここらへんで吹いてみよう、とか、いうんですよね。

 

ネムリ堂 え、なんだか鹿の気配がする、ってそれがわかるのがすごい。

 

ymst 気配がなんかあるのかなあと思って。だからこの鹿笛がね、名人ていうのはそうやって、恐ろしく落ち着いていました、とか、やっぱりどきどきしながらも、自分を保って動かない、で、鹿の声を聞く、っていう人がやっぱりうまい。

 

ネムリ堂 そうなんですね。なかなか聞けないお話が聞けちゃったみたい。

 

ymst で、1ページ目を読むと、山の深いところで、息をひそめて、というのが浮かんできて、余計こう、ぞくぞくと。

 

gentle finger window ほんとですね。鹿笛、YouTubeで検索してみよう。

 

ymst ぜひぜひ。思っておられるだろうよりも、不思議な音です。こんな声?っていう。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。じゃ、今日はこの辺で、おしまいにしたいと思います。スピーカーの皆さん、今日はありがとうございました。

次回、第三回目は、「ハンカチの上の花畑」をとりあげたいと思っています。

「ハンカチの上の花畑」は、

あかね書房「ハンカチの上の花畑」

偕成社安房直子コレクション4」

講談社文庫「ハンカチの上の花畑」(kindle

に収録されています。よろしかったら、また、ぜひ、ご参加ください。

 

 

次回は、4月26日(金)夜8時半~、Ⅹ(@nemuridoh)スペースにて。

童話作家安房直子さんについておしゃべり(1)「きつねの窓」

童話作家 安房直子さんについておしゃべり (1)「きつねの窓」

 2024・2・16開催

 

(参加者 ・ネムリ堂

・gentle finger window

・アロマアクセサリー&香りと文学m.aida

・アロマスタイル)

 

ネムリ堂 こんばんは。ネムリ堂のスペースへのご参加をありがとうございます。

このスペースは録音しており、終了後、文字に起こして、ゆくゆくは、記録用の冊子にまとめる予定です。スピーカーとして、発言されるかたは、その旨、ご了承ください。

このスペースは、2023年12月に、安房直子を語り継ぐ会~ライラック通りの会主催で行った安房直子作品ランキングの結果をもとに、ランキングの一位から、ひと作品ずつとりあげて、おしゃべりしようというものです。

はじめに、かんたんに、童話作家安房直子さんについて、そのプロフィールをご紹介します。

安房直子さんは、1943年(昭和18年)生まれ、1993年(平成5年)に肺炎のため50歳で、ご逝去されました。日本女子大に学び、ムーミンの翻訳や北欧神話のご紹介で知られる山室静さんに師事、山室門下の生徒たちがたちあげた同人誌『海賊』を、活動の出発とされました。

「さんしょっ子」で、日本児童文学者協会新人賞を受賞、その後、

小学館文学賞(短編集『風と木の歌』)、 

野間児童文芸賞(短編集『遠い野ばらの村』)、

新美南吉児童文学賞(連作集『風のローラースケート』)、

ひろすけ童話賞(「花豆の煮えるまで」)

亡くなった後に刊行された連作集『花豆の煮えるまで~小夜の物語』で、赤い鳥文学賞特別賞を受賞されました。

おもに、1970年代、1980年代の、昭和の時代に活躍された童話作家さんです。

その安房直子さん作品をめぐり、2023年12月に、あなたの好きな安房直子作品ランキングを募集し、ライラック通りの会会員43名、会員外40名、合計83名からのご回答をいただきました。

回答にあがった作品は、じつに116作品にものぼりました。

栄えある第1位は、誰もが納得の名作「きつねの窓」です。

スペースでは、この116作品を、一作ずつ順番に取り上げて行きたいと思います。ちょっと何年かかるかな、一年に12作品しか取り上げられないのですけれども、もう年単位で考えていただきたいと思っています。

今回は、スペース第一回目、はじめての開催です。

その記念すべき第一回目は、不動のランキング1位、「きつねの窓」をとりあげます。

 

「きつねの窓」は、1971年に『目白兒童文学』に発表された作品です。2024年現在、読めるテキストとしましては、

ポプラ社 絵本『きつねの窓』(織茂恭子さん・絵)

金の星社 絵本『きつねの窓』(いもとようこさん・絵)

・ポプラポケット文庫『きつねの窓』

偕成社文庫『風と木の歌』

偕成社安房直子コレクション1』

講談社文庫『南の島の魔法の話』(kindle版)

で、読むことができます。

今回のランキングですが、あえて、「きつねの窓」をはずしました、というかたも、ずいぶん多くいらっしゃいました。それでも、なお、堂々の1位となりました。やはり、教科書にいまなお掲載されている作品なだけに、ほかの作品にくらべ、知名度が高いのだと思います。

現在教科書に掲載されている安房直子作品は、「きつねの窓」のほかには、「初雪のふる日」、「つきよに」、の、この二作です。

私は、1971年生まれですが、小学校6年生の時でしょうか、大好きで敬愛してやまない安房直子さんの作品が、なんと、教科書に載っている!!それを授業で扱う、と知って、もう、狂喜乱舞したおぼえがあります。で、この作品大好きなんだ、とクラスで話していたら、こんな話、つまんねえ!!と、男子に言われ、ものすごく腹をたてたことも併せて覚えています。

教科書で読んだかた、おられますでしょうか。gentle fingerさん、どうですか?

 

gentle finger window 私、教科書で読んだことはないんです。全国学校図書館議会選定の「必読図書」で、読書感想文用に『ハンカチの上の花畑』を読んだのがはじめてだったので。

 

ネムリ堂 ああ、そうなんですね。

 

gentle finger window そうなんですよ。教科書には載ってたことがないですね。

 

ネムリ堂 そうなんですね。gentle fingerさんと私は、ちょうど一年違いで、年が近いのですけれど、教科書で読まれているのかなあと思ったら違っていたのですね。

 

gentle finger window 私、光村図書だったのですけれど、ずっと。

 

ネムリ堂 ああ! そうなんですね。「きつねの窓」は、教育出版と、学校図書と、日本書籍なんですよ。なので、その3つじゃないと、違っちゃうんですかね。

私の息子も、今、ちょうど6年生で、今年、きつねの窓を国語でやったといってまして。どんな授業だったの?としつこく聞いたのですが、登場人物の気持ちになってみる、心の中を想像する、といった内容だったようで。あと、指の窓で、自分は何を見たいかの作文を書く、という風で。

 

gentle finger window へえ。面白いですね。読んでみたいですね。子どもたちの作文。

 

ネムリ堂 なんかね、うちの息子は、何を見たいの?という作文を見せてもらったんですけど、いなくなっちゃった猫を見たい、って書いてましたね。

 

gentle finger window なるほど。

 

ネムリ堂 やっぱり、失くしてしまったものを見たい、会いたい、そういう気持ちで書いたみたいでした。

 

gentle finger window なるほどね。なんか、ちょっと前のライラック通りの会の文庫の会でも出ましたね。指窓でみなさんが何を見たいか聞いてみたいですね。子どもから大人まで。

 

ネムリ堂 聞いてみたいですよね。

そうですね、安房直子作品は、わかりやすいメッセージ性にみちた作品ではありませんから、授業でとりあげるのは、先生によっては、困っちゃう先生もいるかもしれないな、などと思ったりします。

この作品のキーワードは、「青、窓、きつね、ひとりぽっち、郷愁、銃」といった風に私はスケッチしてみたんですけれども。

そうそう、青く塗る、ということが、あこがれの形をした幻をみせてくれるという点で、「夢の果て」という作品が安房さんにはあるのですけれども、その作品と共通してると思うのですが、どう思われますか。こちら1974年発表の作品なんですね。で、「きつねの窓」は1971年発表なので、3年あとの作品なんですけれど。こう、塗ったことが、あこがれの形をした幻をみせてくれる、という。あと、gentle fingerさんが、指先に色を塗る、指先に色をのせる、ということで、文章を書かれていたじゃないですか。

 

gentle finger window はい、去年なんですけど、「きつねの窓」では、指窓をつくってというそこに注目されることが多いと思うのですけど、私は安房さんの作品を読んでいて、マニュキアなど、指に色を塗ることで違う世界が見られる、例えば、「きつね山の赤い花」だと、きつねのお母さんがゆみ子のゆびに赤いマニュキアを塗ってくれると遠くにあるはずのきつね山の椿が咲いているのが見えるとか、違う世界に連れていってくれるように思えました。少し前の時期になりますが、ファンタジーじゃなくて、安房直子さんにしてはとても珍しいリアリズムの作品「ねがい」(1975年発表)、これは、『ジュノン』というファッション雑誌に掲載された作品で、やっぱり主人公の女の子、子どもなんですけど、赤いマニュキアをおばさんに貰って塗ってみて、会いたくても会ったことのなかったお父さんに会いにいく勇気をもらうというか。

 

ネムリ堂 呼び鈴をマニュキアを塗った人差し指で、ピンポンと押すための勇気をもらえるというかね。

 

gentle finger window そこもやっぱり、今生きる世界と違うところに行こう、飛び込む勇気をもらえるというか、なんでしょうね、指を花の色で染める、指にマニュキアを塗るということで、勇気、力をもらえる。安房さんにとって、なにか違う世界に連れて行ってもらえるような、そういう特別な意味があるのかな、と。「きつねの窓」は、指先に色を塗って、更に指窓を作ることで、また全然違う異世界が覗ける、見られるようになる。指窓で、今いる自分の世界(=ステージ)とは違うところへ行ける…。安房さんにとって、指は特殊な力を得られる、特別なものという思いがあったのではないでしょうか。

 

ネムリ堂 そうですね。指先に色をのせるということで、こう、共通性が出て来るのが面白いですね。私も、「きつね山の赤い花」が1984年の発表なんですけれども、「きつねの窓」が1971年で、およそ10年のスパンがあるんです。そのスパンで、10年の時を経て、最初「きつねの窓」というのが、きつねが人間に化けて人間と交流を持つじゃないですか。それが10年経ったことで、きつねの姿のまま「きつね山の赤い花」っていうのはおおらかに交流する物語に変化していっているな、というのが興味深いなと。アロマアクセサリーさん、いかがでしょうか。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 素敵なスペースをありがとうございます。

 

ネムリ堂 こちらこそご参加ありがとうございます。「北風のわすれたハンカチ」をアロマアクセサリーさん、お好きだと思うのですけれど、この青いハンカチって、「きつねの窓」の青と、「青」が共通してきますよね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida はい。「ハンカチの上の花畑」にも青いハートの泉が。なんか青の色はちょっとした魔法というんですか、それを使う時にでてくる色かな、というのは感じました。gentle finger windowさんがさっきおっしゃっていたように、異世界ですとか、大人の世界ですとか、とくにマニュキアに関しましては、今は皆さん子どもの時からマニュキアを知ってますけれど、たぶん安房さんが若かった頃は、やっぱりちょっと特別な感じがあったんじゃないかな、と思うんですね。

 

ネムリ堂 お化粧の歴史として考えると当時どうだったのかすごい興味深いですね。70年代って、でも、結構サイケデリックな感じがしません?

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida ただ、お子さんは、そんなにしてなかったんじゃないかな?と。

 

ネムリ堂 そうか、子どもはしてないですね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 当時は特別なことだったと思うんですね、儀式的な…。

 

gentle finger window あと、安房直子さんの性格からいって、赤いマニュキアを爪に塗るっていうのが、ものすごく大人な、もしかすると大人になってからも、赤いマニュキアを塗るっていうのはなんか特別な時にしていたことなのかもしれませんね。

 

ネムリ堂 そうですね。そうかもしれない。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida エッセイか何かで、お洋服のことも、皆さん、大学に入って好きなの(既製服)を着ているんだけれど、自分(安房さん)はまあ、嬉しいのだけれども、お母さまに作ってもらったお洋服で…というようなくだりがあったと思うので、そうしたところを鑑みますと、やっぱりちょっと特別な…??

 

ネムリ堂 ご自分ではマニュキアとかされてなかったかもしれませんね。作品では書いているけど。

 

gentle finger window そうかもしれないですね。なんかエッセイを読む限り、なんとなく遠い気がしますね。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida お写真を拝見した感じでも、すごくお化粧をされている、という感じではなかったな、と思うんですね。その特別感が、魔法…、日常からの飛躍、のような感じが私はしました。お化粧は、子どもにとって、おしゃれをする楽しみわくわく感と共に、自分が大人という特別な存在になったようなドキドキする気持ちになれる、魔法のようなものなのではないでしょうか。アニメ『ひみつのアッコちゃん』は、お化粧に使うコンパクトで変身します。

 

ネムリ堂 安房さんのエピソードとして、安房さんのお姉さまから教えていただいたことがあるのですけれども、安房さんは指輪を集めていらしたそうなんですよ。それで、指輪をよく指にはめて、それを創作の息抜きの合間に眺めてらしたようだった、と。

 

(※ここで、録音アクシデントにより、後半が途切れてしまっています。この後は、皆さんにご協力いただいて復元できるところまで、復元したものになります。)

 

ネムリ堂 安房作品は、非常にいきいきと色彩を描いた作品が多いのですが、なかでも「青」は、安房さんのお気に入りの色彩だったようです。

「惹かれる色」(1993)というエッセイで、青や紺に強烈に惹かれる自分について語っておられます。「童話と私」(1990)というエッセイでも、色というものを、言葉の力だけでありありと伝えてみたいと思っていた、と書いています。新しい作品の構想を練る時、浮かんでくるのは色のイメージだ、とも書いています。

青がテーマの他の作品は、「空色のゆりいす」(1964)、「青い花」(1966)、「夢の果て」(1974)、「青い糸」(1975)があります。

タイトルに青が入った作品として、「青い貝」(1976)、「ふしぎな青いボタン(1984)などがあります。

また、いちめんの青に、ひとかけらの白、という色の取り合わせも、幾度も描いています。「きつねの窓」(1971)の、青いききょう畑の白いこぎつね。「鳥」(1971)の、一面の青海原に、白いかもめ、まっ白な雪野原に、青い花びらのような北風の少女(1967)、青いくちばしの白い小鳥の「青い糸」(1975)などです。

きつねの登場する作品は安房さんにはいくつもあって、「きつねの窓」(1971)の他に、「きつねのゆうしょくかい」(1969)、「コンタロウのひみつのでんわ」(1982)、「てんぐのくれためんこ」(1983)、「きつね山の赤い花」(1984)、「冬吉と熊のものがたり」(1984)、「べにばらホテルのお客」(1987)、未収録作品でも、「こぎつねコンタロウ」(1982)、「きつねの灰皿」(1982)、「小さな緑のかさ」(1985)があります。

でも、こうしてみると、「きつねの窓」を書いた後、10年間、安房さんはきつねの物語を書かなかったのだ、という気づきが今新たにありました。それだけ、「きつねの窓」は、安房さんにとっても特別な作品だったのではないか、と思います。きつねの登場する作品について、アロマスタイルさん、お話いただけますか。

 

アロマスタイル 今回のテーマが「きつねの窓」に決まったので「きつね」が登場する他の作品を読んでみようと思い、ネムリ堂さんの『安房直子の動物手帖』を参考に数作品、読んでみました。

 

ネムリ堂 ありがとうございます。

 

アロマスタイル その中で「コンタロウのひみつのでんわ」が、さみしさの共有という点で、「きつねの窓」と似ている印象がありました。「きつねの窓」の「ぼく」と、「コンタロウのひみつのでんわ」のおじいさんの年齢の違いで、安房直子さんの用意しているラストが違うのかな、と感じました。「きつねの窓」の「ぼく」は年齢が書かれていませんが、現実問題、思い出にばかりひたっていられない。過去を振り返ったり、思い出すのは時々くらいがちょうどいいじゃないか、というラスト。「コンタロウのひみつのでんわ」の「おじいさん」には、離れていても、直接会えなくても、声がきけなくても、心が通じあっていれば、心あたたまる時間がもてるんだねというラストだな~と、感じました。2つの作品を読み比べて、はじめて感じた気づきでした。

コンタロウのひみつのでんわ」は今回のランキングも上位ではありませんでしたが、かわいらしくほっこりする優しい物語なので、ぜひ読んでいただきたいなあと思いました。私はどちらも、大好きな物語です。

 

ネムリ堂 「コンタロウのひみつのでんわ」がランキングに入らなかったのは、絶版であることもあるのかもしれませんね。残念ですが。優しい良い作品ですよね。「ひとりぽっち」、という言葉を安房さんはよく使いますよね。「コンタロウのひみつのでんわ」のコンタロウ、おじいさんや、「きつねの窓」の「ぼく」。「北風のわすれたハンカチ」のつきのわぐま。「雪窓」のおやじさん。「ころころだにのちびねずみ」、「まほうをかけられた舌」の洋吉。「三日月村の黒猫」のさちお。「ひめねずみとガラスのストーブ」の風の子フー。「遠い野ばらの村」のおばあさん。「海の館のひらめ」のしまお。「星のおはじき」の「わたし」。「青い糸」の千代、周一。「鳥」の「あたし」…と、たくさんあるのですけれど。

そんなひとりぽっち同士のこぎつねとぼくのさみしさの共振が両者の出会いを産み、ぼくは、やさしく、そしてはかないギフトをもらいうけて、帰還する、そういう物語であるのだと思います。そんなところに、どうしようもなく、惹かれてしまいます。

 

gentle finger window ひとりぼっち、ではないのですか。「ひとりぽっち」なんですね。

 

ネムリ堂 そうなんです。「ひとりぽっち」なんですよ。安房さん独特の表現なのかも。あと、安房さん独特の表現として、「くつくつ」笑う、というのがあって。私は、「くつくつ」、たくさん安房作品に登場すると思い込んでいたのですが、調べてみたら、「きつねの窓」の「おかしさがくつくつとこみあげて」のほかは、単行本未収録作品「山にふくかぜあきのかぜ」という仕立て屋さんのお話一作だけだったんですよね。

そうそう、「コンタロウのひみつのでんわ」は、もとの雑誌掲載時は、こぎつねではなくて、青年のきつねだったのですよ。

 

gentle finger window こぎつねという設定にしたのはなぜなんでしょうかね。

 

ネムリ堂 やっぱり、児童書として刊行するにあたり、読者が共感しやすいように、こぎつねという設定にしたのではないか、と。もとのお話では、青年のきつねが、おじいさんとぶどう酒を作る、というお話なんですね。

また、「きつね」ですけれども、安房さんのエッセイ「きつねと私」(1978『児童文芸』陽春臨時増刊号収録)では、きつねという動物に、ほかの動物とは違う、一種神秘的な感じ、かなしいものを感じる、と書いています。

 

gentle finger window 一般的に、きつねというと、ずる賢いというイメージがありますが、安房さんの物語の中のきつねは、どちらかというと優しく、だれかを助けてくれるような良いイメージがありますね。

 

ネムリ堂 「きつねと私」のエッセイの中では、天気雨、子ぎつねこんこんの歌、賢治の雪渡、子どもの頃の影絵遊びや、お母さまのたんすにしまってあった銀ぎつねのえりまきのエピソードを書いています。その美しい毛並みにみとれながら、殺されたきつねを思い、いたましい様な思いにかられた、と。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida 母子のきつねというと、安倍晴明の母親が一説によると「きつね」であるとされていますね。「葛の葉」という名称は江戸時代に歌舞伎で使われるようになりました。文学的教養のある人であれば知っているお話ですよね。恩返し話、異類婚姻、母子別れ話など、安房さんの作品のモチーフと共通する部分があります。

 

ネムリ堂 それから、安房さんは同じエッセイで「私の作品のきつね達(熊、鹿、うさぎ)は、常に追われる動物であり、追われ狩られる動物と、動物を狩ることで生きてゆく人間の悲しいかかわりあいを描く事が多い」、と書いています。

狩る事、狩られる事をテーマにしている作品としての「きつねの窓」には、善悪という価値判断はないのですね、ただただ、そのかかわりあいの「かなしさ」「さみしさ」を安房さんは描いていてるのですよね。

狩り狩られることがテーマの作品としては、「天の鹿」(1978)があります。猟師、銃が登場する作品は、「しろいしろいえりまきのはなし」(1966)、「野ばらの帽子」(1971)、「鶴の家」(1972)、「あざみ野」(1975)、そして、「小鳥とばら」(1979)、「月へ行くはしご」(1990)があります。

「きつねの窓」では、白いきつね、と安房さんは描いていますが、日本に一般的に生息するのは赤いきつねです。日本本土にホンドギツネ、北海道にキタキツネ。ちなみに、シルバーフォックス銀ぎつねは、毛皮としては最高級のランクとなり、ロシア、西ヨーロッパ、中国の貴族に珍重されていたようです。

物語の世界において、白い蛇、白い鳥、が神聖視されたのと同じ文脈で、「きつねの」窓のきつねは、「白」いきつねであるのかもしれません。

色彩の話ですと、ききょうの花って、厳密には、青でなく、青紫で、のちに、「ききょうの娘」(1982)を書いた安房さんは、ききょうを紫、と表現していますし、ききょうの花を潰しても、青い染料をとることはできないので「きつねの窓」のききょうの染料は、空想上の染料なんですよね。

指を青く染めるには、ツユクサのほうが適している気がしますが、安房さんは、青い花の群生している野原を描きたかったのかもしれません。

ききょうは、群生する花なのかな?と疑問に思って、ききょう、群生地で調べてみましたら、京都には、いくつかのききょうの群生スポットがあるようです。なかでも、亀岡市のききょうの里には、五万本のききょうが咲いていて、開園時期は、6月20日すぎ~7月20日すぎくらいのようでした。

 

gentle finger window 京都なんですね。安房さんの物語の中で印象的なモノ…自然、植物、動物などは、安房さんが子どもの頃に出会ってきた地で出会ったものが多い気がしますが…。京都は、安房さんの生育地ではないですね。

 

ネムリ堂 そうですね。京都の他にも、気候の関係で似たような地があったのかもしれませんが。ほかにも安房さんは、青い花の群生を、作品で描いていますね。

「夢の果て」(1974)のアイリス畑、未収録作品「霧立峠の千枝」(1973)の、マツムシソウの野原、「サフランの物語」(1987)のサフラン畑、「ききょうの娘」(1882)のききょうの野原、「長い灰色のスカート」(1972)のつゆくさなどですね。

「窓」というモチーフも、安房さんは、沢山作品にしています。

「雪窓」(1972)、「春の窓」(1986)、「天窓のある家」(1977)、未収録作品では、「オレンジ色の窓」(1988)。

「夕日の国」(1971)や「青い糸」(1975)に登場する飾り窓、ショーウィンドウなども、物語が走りだすきっかけとしての窓があります。

小さなフレームの中の小さな風景、という意味では、「鳥」(1971)の少女の耳の中の風景、「てまり」(1972)のたもとの中に見える風景、という手法も、窓のうちに入るかもしれません。

「きつねの窓」の窓は、失われたもの、殺されてしまった母親のきつね、もう二度と会えない少女、焼けてしまった家、死んだ妹、など、ある意味、死の世界とつながっているのではないでしょうか。もし、この青い指の窓を主人公が持ち続けていたとしたら、どんな物語となったかな?なんて思ったりします。

安房作品の他の作品にあるように、たとえば「火影の夢」の、銀の首飾りに魅入られてしまったこっとう屋の奥さんのように、あるいは、「青い糸」の、あやとりのとりことなってしまった周一のように、何時間も、窓のとりことなって暮らすようになり、いつしか、窓の中へととりこまれてしまう…そんな物語になっていた可能性もあるのではないでしょうか。でも、安房さんは、そういう物語にしなかった。きつねは指で作る窓を「ぼく」に与え、それを「ぼく」は喪失してしまいます。

 

アロマアクセサリー&香りと文学m.aida きつねは、「すてきなゆび」を「ぼく」に与えて、亡くなってしまった存在に会えるようにして殺生で大切な存在を奪われたものの気持ちを感じさせようとしたのではないでしょうか。「ぼく」は、物語の中ではあまり深刻に物事を捉える人物として描かれていません。大切な存在を失った直後は悲しんだり怒ったり恨んだり悔んだりしたかもしれませんが、時と共に風化していったのかもしれません。

 

gentle finger window 「きつねの窓」の指窓の話は、柳田国男からイメージを得たのでしたね。

 

ネムリ堂 安藤美紀夫さんとの対談「メルヘン童話の世界――作者と語る」(1978『教科通信』教育出版掲載←後に、「『きつねの窓』『鳥』をめぐって」と改題)では、きつねの窓の物語の発想の元となったのが、柳田国男の、昔の子ども遊びについての伝承から「指で窓を作ると、かみしもを着たきつねがみえる。そういう遊びがある」というところから書いた、と言っていますね。安房さんの「きつねの窓」は、親指と人差し指でつくるひし形の窓ですが、民俗学的なきつねの窓というのは、もっと複雑な指の組み方で、角川ソフィア文庫の『しぐさの民俗学』という文庫本の表紙の人物が、その指の組み方をしています。そのきつねの窓は、その窓から「魔」を覗くと、魔を破れる、とか、そこから息をふうっと吹くと、吹かれた相手が死んでしまう、とか、色々な伝承があるようです。

 

gentle finger window 日本には、元々、指で窓を作り、指窓を通じて異世界とつながる、見ることができるという伝承があるのですね。

 

ネムリ堂 安藤美紀夫さんとの対談では、また、「きつねの窓」について、安藤美紀夫さんから、「太平洋戦争とか、なにか破壊するものに対する思いはあったんですか」という問いかけに、狩られる側の動物のこと、猟師と動物の話はずいぶん書いている、でも戦争とかそういう風には考えなかった。だが、戦前の家の縁側があって中に障子があって…という家は、やはり戦争で焼けたのでしょうから、だから戦争なのかもしれないけど、直接そうは考えないで書いた、とお話されています。

 

gentle finger window 先日のライラック通りの会の文庫の会でも、きつねの窓は反戦の物語でもある、という指摘を、朗読家の秋元紀子さんがされていましたね。きつねが鉄砲を「ぼく」からもらうところ、ぼくが作った指窓の中に、焼けてもうない家、亡くなった妹というところに、反戦という意味合いを見出す人もいるのですね。私は、反戦の物語という話を、秋元さんからはじめて聴きましたが、自分で最初に読んだ時はそこまで考えませんでした。

 

ネムリ堂 私は、国語の教科書の指導書で、「焼けた家」とは、太平洋戦争とか、東京大空襲ではないか、という指摘をしたのを読んだことがあるのです。そうして、私もはじめて、そういう見方をするようになりました。私も、安房さんご自身が意識的ではなくても、発表当時、1971年頃は、まだまだ、敗戦の記憶が色濃く、しみついていた時期だったのではないか、と推測します。しかし、戦争の記憶の薄れた現代の子どもたちには、共有しづらくなっている感覚ではないか、と思ったりします。

 

gentle finger window いろいろな取り方のある、深いお話ですね。

 

ネムリ堂 今、ちょっと直感的に思ったのですが、「銃」というものが、戦争、暴力、殺戮、というものを集約させたものだとすると、きつねがあくまで無邪気に銃をねだることで、「ぼく」が手離したのが、そういう暴力、戦争、殺戮、というモノなのかもしれない…。こぎつねに浄められた「ぼく」というか。

 

gentle finger window 「きつねの窓」、もう一度、色々と考えながら読み直したいです。

 

 

次回は、3月8日(金)夜8時半~、X(@nemuridoh)スペースにて。

ランキング2位「天の鹿」をとりあげます。

安房直子さん作品ランキング発表!!

安房直子さん作品をめぐり、2023年12月に、あなたの好きな安房直子作品ランキングを募集し、ライラック通りの会会員43名、会員外40名、合計83名からのご回答をいただきました。

回答にあがった作品は、じつに116作品にものぼりました。

栄えある第1位は、誰もが納得の名作「きつねの窓」です。

ネムリ堂は、

Xのスペースでこの116作品を、一作ずつ順番に取り上げて行きたいと思います。

ランキング集計にあたり、お一人5作品を挙げてもらい、

1位5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点として、集計。

5作品以上を挙げてくださった場合は、0.5点として、集計しました。

  全ランキング(83名・116作品)
    総点数
1 きつねの窓 69.5
2 天の鹿 57
3 ハンカチの上の花畑 53.5
4 雪窓 47
5 42
6 あるジャム屋の話 39.5
7 遠い野ばらの村 35
8 北風のわすれたハンカチ 34
8 ひぐれのお客 34
10 火影の夢 33
11 白いおうむの森 29
12 銀のくじゃく 28.5
13 まほうをかけられた舌 28
14 さんしょっ子 26
15 熊の火 23
16 三日月村の黒猫 21
17 海の館のひらめ 20.5
18 夕日の国 20
19 小さいやさしい右手 19
20 夢の果て 18
21 青い花 17
21 小鳥とばら 17
23 ライラック通りのぼうし屋 16
24 初雪のふる日 15.5
25 南の島の魔法の話 15
25 ゆきひらの話 15
27 すずめのおくりもの 14
28 青い糸 13
29 海からの電話 12.5
30 うさぎのくれたバレエシューズ 12
30 ふろふき大根のゆうべ 12
30 ほたる 12
33 奥さまの耳飾り 11.5
34 だれにも見えないベランダ 11
34 鶴の家 11
34 鳥にさらわれた娘 11
37 丘の上の小さな家 10
37 花のにおう町 10
37 日暮れの海の物語 10
40 海からのおくりもの 9
40 猫の結婚式 9
40 ひめねずみとガラスのストーブ 9
40 べにばらホテルのお客 9
44 夏の夢 8.5
45 秋の風鈴 8
45 月夜のテーブルかけ 8
45 長い灰色のスカート 8
48 天窓のある家 7.5
48 野の音 7.5
48 緑のスキップ 7.5
51 だれも知らない時間 7
51 春の窓 7
51 ひぐれのひまわり 7
54 ある雪の夜の話 6
54 うさぎ屋のひみつ 6
54 ききょうの娘 6
54 空にうかんだエレベーター 6
54 野ばらの帽子 6
54 花豆の煮えるまで 6
54 ふしぎな文房具屋 6
54 やさしいたんぽぽ 6
62 赤いばらの橋 5.5
62 グラタンおばあさんとまほうのアヒル 5.5
62 空色のゆりいす 5.5
65 木の葉の魚 5
65 声の森 5
65 白樺のテーブル 5
65 そらいっぱいの ピアノ 5
65 星のおはじき 5
65 わるくちのすきな女の子 5
71 しろいしろいえりまきのはなし 4.5
72 黄色いスカーフ 4
72 小さなつづら 4
72 沼のほとり 4
72 ねこじゃらしの野原 4
72 ねずみのつくったあさごはん 4
77 海の雪 3.5
78 お日様のむすこ 3
78 だんまりうさぎはさびしくて 3
78 花びらづくし 3
81 月夜のオルガン 2.5
82 風のローラースケート 2
82 水仙の手袋 2
82 たんぽぽ色のリボン 2
82 野の果ての国 2
82 緑の蝶 2
82 もぐらのほった深い井戸 2
82 雪の中の映画館 2
82 ゆめみるトランク 2
90 海の口笛 1.5
90 ゆうぐれ山の山男 1.5
92 歌をうたうミシン 1
92 エプロンをかけためんどり 1
92 おかのうえのりんごのき 1
92 オリオン写真館 1
92 きつねの夕食会 1
92 心を豊かにしてくれる私の森の家 1
92 ころころだにのちびねずみ 1
92 てまり 1
92 ねずみの福引き 1
92 春のひぐれ 1
92 水あかり 1
92 雪の中の青い炎 1
104 カスタネット 0.5
104 川のほとり 0.5
104 こぎつねコンタロウ 0.5
104 だいこんばたけのだんまりうさぎ 0.5
104 だんまりうさぎと大きなかぼちゃ 0.5
104 小さいティーカップの話 0.5
104 小さな緑のかさ 0.5
104 なのはなのポケット 0.5
104 ねがい 0.5
104 野ばらの少女 0.5
104 花びら通りの猫 0.5
104 やまのくりごはん 0.5
104 ゆきのひのだんまりうさぎ 0.5

 

物語の食卓 秋 第三話

このブログは、
アイダミホコさんのブログ
ネムリ堂のブログ
の、童話作家  安房直子さんの作品に登場するお料理をめぐる、安房直子さん生誕80周年のコラボ企画です。
 
安房直子さん(1943~1993)は、日本女子大学在学中、北欧文学者、山室静氏に師事、同人誌『海賊』に参加、「さんしょっ子」で、第3回日本児童文学者協会新人賞を受賞、その後もサンケイ児童出版文化賞小学館文学賞野間児童文芸賞新美南吉児童文学賞、ひろすけ童話賞、赤い鳥文学賞特別賞を受賞。「きつねの窓」「鳥」「初雪のふる日」などが、小・中学校の教科書に採用されています。初期の幻想的で謎めいた作品から、動物たちが活躍する晩年のあたたかなお話まで、没後30年経った今なお、新しい読者を獲得し続けています。代表的な著作は、偕成社からの選集『安房直子コレクション』全7巻、瑞雲舎『夢の果て』など。
 
豊島区東長崎の雑貨店、Planethandさんの安房直子さん企画展、幻の市でご一緒したご縁で、このコラボ企画は産まれました。 http://planet-hand.com
 
アイダさんに、安房さんのお料理を再現していただき、スタイリッシュでお洒落なお写真におさめていただくという、贅沢な企画です。その写真に、アイダさん、ネムリ堂双方が、思い思いの短い文章をそえたブログを同時公開、季節ごとに小さな冊子にまとめる、という計画をしています。一年間を通して、15の食卓の連載を予定しています。どうぞ、おたのしみに!
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料理・スタイリング・撮影:アイダミホコ

みゆきが牡鹿ののどの渇きを心配し、山ブドウのお酒を分け合ったことで、牡鹿は天の鹿になることができました。そして、牡鹿と分け合った、あたたかなきのこの雑炊。牡鹿と分け合った、みずみずしい大きな金色の梨。

「よもつへぐい」という言葉がありますが、異界の食物を食べたみゆきは、現世に戻ることはなく、天の鹿とともに、天に昇ります。

花嫁のための白い桔梗の花束は、同時にまっ白な死に装束でもあるのでしょうか。

 

今回、アイダさんには、そのきのこの雑炊を再現いただきました。原作通りに、まつたけと栗、大根の入った、なんとも贅沢で美味しそうな雑炊です。

 

自分のキモを食べた娘を探している牡鹿。

鹿のキモは、『日本俗信辞典 動物編』によれば、腹痛の薬だといいます。キモは、「肝心」という言葉の「肝」の部分、ハートと同一視されるものでありますから、牝鹿の声を模した鹿笛に誘われ、恋の気持ちのまま撃ちとられた牡鹿のキモを食べたみゆきが、牡鹿と結ばれることは、ある意味必然であるのかもしれません。

 

鹿と人間の娘が結ばれる異類婚姻譚であり、異類婿の系譜につらなる作品ですが、日本の昔話の異類婿である、「猿婿」や「蛇婿」のように、婿が排除されるかたちをとることの多い日本のむかし話とは、一線を画す物語となっています。

 

この作品は、真実の愛をつらぬく物語でありながら、天の鹿との魂の結婚は、そのまま生身の体を捨て、かけがえのない肉親との別れをも意味するものです。だからこそ、そのことこそが、この美しい物語を、しんとしたかなしみでいろどり、より一層、心に響きつづけるのです。

 

安房さんは、エッセイ「きつねと私」で、追われるものと追うものとのかなしいかかわりを描きたい、と書いています。猟師が登場するのは、そのせいであると。「天の鹿」も、そんなかなしみに満ちた作品です。

安房作品には、猟師が印象的に登場します。「天の鹿」をはじめ、「鶴の家」の主人公は猟師です。そして「野ばらの帽子」、「月へ行くはしご」「しろいしろいえりまき」などにも猟師は登場します。代表作「きつねの窓」の主人公も、きつね猟をするべく銃を持ち、その大切な銃を、染めた指の対価とします。

 

「天の鹿」のラストシーン、猟師である父親の清十さんは、空に、鹿の形をしたおどろくほどのたくさんの白い雲がいっせいにわきあがるのを目撃します。その群れの中に、ひとりの娘のかたちを見、その姿はたちまち牝鹿のかたちにかわり、やがてほかの雲のかげにかくれてみえなくなります。清十さんの、「おう、おう」と、わけのわからぬ声をはりあげてどこまでも走ってゆく姿には、胸がいたくなります。牡鹿とみゆきの真実の愛の裏側には、このような身を切られるような悲しい肉親との別れがあるのです。

この作品は、鹿と娘の婚姻を描いていますが、私は、遠野に伝わる伝説である白馬と娘の婚姻譚、「オシラサマ」を連想しました。

 

遠野物語における「オシラサマ」は、こんな物語です。

昔、ある村に、美しい娘がおり、父親と二人暮らしでした。娘は雪のように白い若駒を大事しており、いつしか離れられぬ仲になりました。父親は若駒を憎むようになり、若駒を裏山の桑の木につるして殺します。娘は泣き崩れ、死んでしまった馬の首にだきつき、泣きに泣きました。あまり泣くものだから、父親はまた憎らしくなり、斧で馬の首を切り落としました。すると、馬の首は娘を乗せたまま、青い空へと消えて行きました。オシラサマとは、この時からの神さまで、馬をつりさげた桑の木の枝でその神の像をつくりました。ひとつは娘で、もうひとつは馬頭をかたどりました・・・。

蚕と馬と娘の物語のバリエーションは、岩手や福島、信州にも伝わっています。「オシラサマ」の物語の源流は、中国にあり、古くは四世紀に成立した『捜神記』にも、類話が見られます。

 

どうでしょうか。父親と娘。娘と馬の魂の結びつき。父親による馬の殺戮。空へ昇って行く、娘と馬。「馬」を「鹿」に置き換えると、不思議なほど、「天の鹿」の物語のキーワードと一致してこないでしょうか。

遠野物語を愛読していた安房さんですから、「オシラサマ」は当然ご存じだったはずです。「天の鹿」の根底には、父親に殺された馬とともに天に昇って行く美しい娘の物語「オシラサマ」のイメージが潜んでいるように思うのです。

 

遠野物語といえば、代表的なお話として、神隠し譚があります。「天の鹿」も、清十さんの側から見れば、大事な娘が神隠しにあった話です。

安房さんは神隠しをテーマに、多くの物語を書きました。

「長い灰色のスカート」、「沼のほとり」をはじめとして、「だれにも見えないベランダ」「海の口笛」「火影の夢」「銀のくじゃく」などの、主人公が異世界へ旅立ち、現世から姿を消すさまは、現代の神隠しそのものです。「丘の上の小さな家」のかなちゃんも、かなちゃんのお母さんにとっては、娘が神隠しにあった状態、「花豆の煮えるまで」の小夜の母さんも、山で姿を消します。「初雪のふる日」も、うさぎにさらわれたままだったら、少女は神隠しにあった状態だったといえるでしょう。

 

日本人は、ねずみ浄土や、竜宮、天狗による神隠し、など、神隠しに、さまざまな異界を想像してきましたが、本来「神隠し」、とされている事件は、現実にはひとさらいや人身売買、或いは事情によって自ら失踪している場合、思わぬ事故で死亡していたり、と、過酷な状況にある場合が多いようです。しかし、人が忽然と消え去る現象には、どこか、遥かなる国への甘美さを感じさせられ、不安の感情とともに、「あこがれ」をかきたてられるものがあります。

 

それは、私自身が、現実において、居心地の悪さを感じつづけていること、「ここではないどこか」、にあこがれる気持ちを捨てきれないことと無関係ではないのかもしれません。

そんな私だからこそ、神隠し、異界を、あざやかに描く安房作品に、強烈に惹かれてしまうのかもしれません。

 

「鹿の市」についてのアイダミホコさんの考察はこちら↓

物語の食卓 秋 第二話 ゆうしょくかいのごちそう

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の、童話作家  安房直子さんの作品に登場するお料理をめぐる、安房直子さん生誕80周年のコラボ企画です。
 
安房直子さん(1943~1993)は、日本女子大学在学中、北欧文学者、山室静氏に師事、同人誌『海賊』に参加、「さんしょっ子」で、第3回日本児童文学者協会新人賞を受賞、その後もサンケイ児童出版文化賞小学館文学賞野間児童文芸賞新美南吉児童文学賞、ひろすけ童話賞、赤い鳥文学賞特別賞を受賞。「きつねの窓」「鳥」「初雪のふる日」などが、小・中学校の教科書に採用されています。初期の幻想的で謎めいた作品から、動物たちが活躍する晩年のあたたかなお話まで、没後30年経った今なお、新しい読者を獲得し続けています。代表的な著作は、偕成社からの選集『安房直子コレクション』全7巻、瑞雲舎『夢の果て』など。
 
豊島区東長崎の雑貨店、Planethandさんの安房直子さん企画展、幻の市でご一緒したご縁で、このコラボ企画は産まれました。 http://planet-hand.com
 
アイダさんに、安房さんのお料理を再現していただき、スタイリッシュでお洒落なお写真におさめていただくという、贅沢な企画です。その写真に、アイダさん、ネムリ堂双方が、思い思いの短い文章をそえたブログを同時公開、季節ごとに小さな冊子にまとめる、という計画をしています。一年間を通して、15の食卓の連載を予定しています。どうぞ、おたのしみに!
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料理・スタイリング・撮影:アイダミホコ

「きつねのゆうしょくかい」のごちそうは、こどものときからの憧れでした。とりのまるやきの美味しそうなこと!! きのこのサラダってどんな味なんだろう、と幼い頭を思いめぐらせましたし、焼きりんごというのも、ロマンチックだと思いました。

当時はなにも疑問を感じませんでしたが、「コーヒー」セットなのに、「紅茶」を振る舞うことにしたのは、今読むとふしぎに思えます。作品発表当時は、コーヒーを自宅で飲む習慣はなかったのかもしれませんね。

 

この「きつねのゆうしょくかい」は、安房さんのごくごく初期の作品で、1969年発表です。1971年発表の「きつねの窓」もそうなのですが、人間と交流するのに、きつねたちは、人間に「化け」て、交流を持とうとします。しかし、後年、「きつね山の赤い花」(1984年)や、「べにばらホテルのお客」(1987年)では、きつねはきつねの姿のまま、人間と遊び、人間の男性と結ばれます。そんな風に、おおらかな関係性へと、晩年にいくに従って、作風が変化していくのは面白いなと思います。

 

「きつねのゆうしょくかい」で、もうひとつ面白いな、と思った点は、幼年童話でありがちな「母―子」という関係性でなく、「父―娘」での登場だという点です。そして、「おかあさん」が、なぜだか不在なのです。

通常、幼年童話では、「母」の存在が大きくて、あまりお父さんだけでは登場しませんし、ましてや動物の親子関係では、母親がメインで、父親はほぼ不在なのではないか、と思ったのです。それで、少し調べてみましたら、きつねは、父親も子育てに積極的に協力する動物だということがわかりました。日本の哺乳類で、父親が育児に参加するのは、人間ときつねとたぬき、その三種だけだそうなのです。面白いですね。

しかし、それを割り引いても、この「きつねのゆうしょくかい」には、なぜ「おかあさん」が登場しないのか、とてもふしぎです。作中には、おかあさんが亡くなったとも、はたまた出て行ってしまった、とも、その説明はひとこともありません。ただただ、おとうさんと、幼いむすめのきつねがいるだけの、ひとり親家庭なのです。

 

安房作品における「母の不在」は、この「きつねのゆうしょくかい」だけではありません。「熊の火」の、熊のおやじさんにはむすめがいますが、おやじさんの奥さんについての説明はありません。「まほうをかけられた舌」の洋吉は、父親と他界して店を継ぎますが、母親については、なぜかひとことも言及がありません。

三日月村の黒猫」と「エプロンをかけためんどり」は、父子家庭で、おかあさんは亡くなっています。「海の口笛」も、父子家庭です。「花豆の煮えるまで」の小夜の家庭も、おばあさんはいますが、おかあさんは出て行ってしまっています。

他にも、おかあさんの存在の希薄な作品がいくつもあります。「あるジャム屋の話」の鹿の娘は、父親鹿をジャム屋の若者に引き合わせますが、母親鹿は出てきません。「夕日の国」の「ぼく」には、スポーツ店を営むおとうさんは登場しますが、おかあさんについての言及はありません。(代わりに、咲子の「おかあさん」が重要なキーパーソンとして登場します)

「長い灰色のスカート」では、回想の中で「おかあさん」は登場しますが、ぜんたい、母の存在は希薄で、その代わり負の母性とも言うべき「長い灰色のスカートの女」が圧倒的な存在感で迫ってきます。ラスト、「私」の頭をなぜて「もうけして山に行くまい」と呟くのは父親だけで、母は不在のままです。(また、作中のヒグマの親子も、「父子」で、母熊はでてきません)

 

「母の不在」は、安房作品にきわだつ特徴のひとつであると感じます。「丘の上の小さな家」のかなちゃんが家に帰宅すると、おかあさんが亡くなっています。「青い糸」の千代は捨て子で、かあさんがいません。周一のおかあさんは、周一を荷物のように預けたまま、よそへお嫁に行ってしまいます。「天窓のある家」の「ぼく」は三か月前に母を亡くしています。「海の雪」も「星のおはじき」も、母親は不在です。「きつねの窓」も、「北風のわすれたハンカチ」も、母親は人間にダーンと、やられてしまっています。「ころころだにのちびねずみ」のおかあさんは、ちびねずみを置いて家を出て行ってしまっています。

単行本未収録作品で、ごくごく初期の作品に、とても気になる作品があります。1959年発表の「赤い花白い花」です。主人公の少年は、いなくなったおかあさんを探しに行くのですが、ラスト、玄関にかあさんのげたをみつけ、かあさんが帰ったことを知る、というものです。かあさんは帰ってきた、という結末ですが、なぜ、母親が家を不在にしていたのかは、はっきり語られないままです。下の兄弟の出産のために家をあけていたのか、はたまた、家出をしていたのか…??? 非常にひっかかる作品です。

 

「病気のおかあさん」というモチーフも、安房作品によく登場します。「だれも知らない時間」のさち子のおかあさんも、良太のおかあさんも、ともに病気で死別しています。「海からの贈りもの」のかな子のおかあさん、「冬吉と熊のものがたり」の冬吉のおかあさん、「さんしょっ子」の三太郎のおかあさん、「あざみ野」の清作のおかあさん、みな、病気がちです。「しいちゃんと赤い毛糸」のしいちゃんのおかあさんも病院に入院しています。

このような安房作品の傾向から、なにを結論としたものか…?? 安房さんが養女であったことと結びつけるだけでは、いささか安易な推論となってしまいそうです。こうした設定の奥には、果たして何が隠されているのか。正直、納得のいく結論は出せないままでした。

ただ、ひとつだけいえることは、こうした、どこか不安定な家族関係には、心ゆすぶられるものがあり、安房作品の魅力を形づくるパーツのひとつであるのではないか、という点です。

今回は、「母の不在」…そういった傾向が安房作品にはある、という指摘だけで、筆を置かせていただきたいと思います。読んでくださった皆さまは、どんな感想をもたれるでしょうか。

 

ゆうしょくかいについての、アイダミホコさんのブログはこちらです。↓

 

物語の食卓 秋 第一話 赤いおわんの山の味

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の、童話作家  安房直子さんの作品に登場するお料理をめぐる、安房直子さん生誕80周年のコラボ企画です。
 
安房直子さん(1943~1993)は、日本女子大学在学中、北欧文学者、山室静氏に師事、同人誌『海賊』に参加、「さんしょっ子」で、第3回日本児童文学者協会新人賞を受賞、その後もサンケイ児童出版文化賞小学館文学賞野間児童文芸賞新美南吉児童文学賞、ひろすけ童話賞、赤い鳥文学賞特別賞を受賞。「きつねの窓」「鳥」「初雪のふる日」などが、小・中学校の教科書に採用されています。初期の幻想的で謎めいた作品から、動物たちが活躍する晩年のあたたかなお話まで、没後30年経った今なお、新しい読者を獲得し続けています。代表的な著作は、偕成社からの選集『安房直子コレクション』全7巻、瑞雲舎『夢の果て』など。
 
豊島区東長崎の雑貨店、Planethandさんの安房直子さん企画展、幻の市でご一緒したご縁で、このコラボ企画は産まれました。 http://planet-hand.com
 
アイダさんに、安房さんのお料理を再現していただき、スタイリッシュでお洒落なお写真におさめていただくという、贅沢な企画です。その写真に、アイダさん、ネムリ堂双方が、思い思いの短い文章をそえたブログを同時公開、季節ごとに小さな冊子にまとめる、という計画をしています。一年間を通して、15の食卓の連載を予定しています。どうぞ、おたのしみに!
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料理・スタイリング・撮影:アイダミホコ

「ききょうの娘」。

この作品は、ききょうの花の精を嫁にするという、いわゆる異類婚姻譚に材を求めたつくりになっています。

文章は、いつもの安房さんの作品のような「ですます調」ではなく、「である調」でまとめられ、昔話のような雰囲気をまとっています。

 

異類婚姻譚とは、日本をはじめ、世界各地の昔話に多く見られる、人間以外の存在――動植物の精、神など――との婚姻の物語を指します。昔話研究者、関敬吾は、異類婿、異類女房のうち、ききょうの娘のような異類女房譚として、

 

蛇女房

蛙女房

蛤女房(AT402)

魚女房(AT402)

竜宮女房(AT456A)

鶴女房

狐女房・聴耳型(AT554、671)

狐女房・一人女房型

狐女房・二人女房型

猫女房(AT402)

天人女房

笛吹婿(AT400、313B・C)

 

というように分類しています。日本各地に、上記のタイプの、似たような女房譚のバリエーションが分布しているというのです。(ATというのは、アンティ・アールネにより編纂され、スティス・トンプソンにより増補・改訂された『昔話の型』番号のことです)

民話全集なども見てみましたが、日本の昔話の中には、熊女房、おおかみ女房、タニシ女房、ヤマメ女房、山鳥女房、雉女房なども散見しました。熊女房、などというと、安房さんの「熊の火」を思いだしますね。

 

また、心理学者、河合隼雄は、『昔話と日本人の心』で、このように異類のものが人間の女に変身し、人間の男性に求婚する話は、日本にはたくさんあるのに、西洋にはまったくといってよいほどみかけない、と書いていますが、それも面白い指摘です。たしかに、西欧に広く伝わる白鳥乙女型の伝説や、ノルウェーイヌイットに分布しているアザラシ女房の話などは、日本の羽衣伝説のように、羽衣や、羽根、毛皮を脱いで水浴している乙女を覗き見た男性が、その毛皮や羽衣をひとつだけ隠し、アザラシや白鳥に戻れなくなった乙女を無理やり妻にするようなお話ですが、日本の異類女房のように、動物が人間の女の姿に自ら変身し、訪ねてきて、男性に求婚するお話はみかけないようです。

異類女房もの自体も、日本と比べて少なく、ぎょうせいという出版社から出されている『世界の民話』全25巻をざっと確認してみましたが、女房物は、アルバニアの「魚女房」、スイス「白鳥の乙女」、西アフリカ「かもしか女房」、モンゴル「竜王の娘と結婚した男の話」の4編だけでした。逆に、東洋においては、他の資料で確認しましたが、中国、韓国には、日本のタニシ女房や、竜宮女房、天人女房と似たお話が伝わっています。昔話の派生、伝播の経過を知ることができるようで、こちらも興味深いです。

 

昔話研究者、小澤俊夫は、異類婚姻譚について『昔話のコスモロジー』という著作を著していますが、西欧の昔話の異類婚姻譚では、「美女と野獣」にあるように、獣などの異類の夫は、魔法で一時的に獣の姿をしているだけで、真実の愛によって、本来の人間の姿に戻り、結ばれる結末が多いのに対し、東洋の、或いは日本の異類婚姻譚では、人間と異類の境い目が曖昧で、異類は異類のまま、人間と別離する、或いは殺されるなどして排除されるような結末が多いと指摘しています。

 

それにしても、こうしてみていくと、動物の異類女房はたくさんありますが、植物の異類女房は全くといっていいほどみかけないことに気づかされます。

唯一、みつけたものが、河合隼雄が『<物語と日本人の心>コレクションⅤ 昔話と現代』で紹介している、『月見草の嫁』という新潟県長岡市で一例だけ採集されたもので、河合隼雄は、この異類女房譚を軸に、「花女房」という考察を展開していきます。その考察については、河合の文章本文を読んでいただくとして、ここでは、『月見草の嫁』のあらすじだけ簡単に紹介してみましょう。

 

ある村に、独身の馬子がおり、毎朝山で、いい声で馬子唄を歌っていました。ある日綺麗な女がひと晩泊めてほしいと訪ねてきて、それから、嫁にしてくれと言い、二人は仲睦まじい夫婦になりました。そんなある日、馬子が刈ってきた草にひともとの美しい月見草がまざっていたので、夫は、綺麗な花があったよ、と妻によびかけるが、返事が無いので家に入って行くと、妻は倒れていて、か細い声で、息絶え絶えに、自分は馬子の歌に惚れ込んだ月見草の精で、嫁にしてもらえてうれしかった、と言い、そのまま死んでしまうのでした。

 

こんなお話なのでした。河合は、このお話を、日本人にとっての「美」の在り方をよく示す例としてとりあげています。お話のラストにもたらされる突然の死が、月見草の美をより一層際立てており、月見草を見るとき、その背後にある「滅び」をも想起するようになる、というのです。

 

安房さんの「ききょうの娘」は、異類女房の多くがそうであるように、ある日突然男のもとにやってくる、押しかけ女房型です。「月見草の嫁」は、「鶴女房」のように、どこからやってきたかわからない旅の娘ですが、「ききょうの娘」の妻は、新吉のおっかさんが、新吉のためをおもって選んでよこした「山のもの」で、多くの昔話とはちょっと違った設定です。

そして、多くの異類女房譚では、出産や水浴や機織りの場を見ないでほしいという「見るな」のタブーを、男が犯したことにより、女房たちは去っていきます。しかし、「ききょうの娘」の犯してはならないタブーは、「おわんを粗末に扱わないこと」でした。その点も、スタンダードな昔話とは異なる点です。

ひとり残された新吉は、だれもいない長屋に、赤いおわんが残されているのを発見します。その赤いおわんの蓋の裏側にほどこされたすすきの模様を眺めているうちに、それが懐かしいふるさとの夕焼けにてらされたすすき野原にみえてきて、いつのまにか新吉は、ふるさとのおっ母さんの住む山のすすき野原にいることに気づきます。嫁さんの紫の着物の端が見えたような気がして、その端をつかむと、手にはききょうの花が残り、そのききょうをたどっていくと、あふれんばかりのききょうの咲きみだれるおっ母さんの家に到着するのです。

家には、おっ母さんはおらず、ききょうの精である嫁さんがおり、おっ母さんがどれだけ新吉のことを毎日思って暮らしているか、を新吉に伝え、真面目に仕事をして腕をあげたら、きっとここに帰ってくるように、と新吉に約束させます。

そして、嫁さんは一緒に町へ帰ることはできないが、おわんからは、毎日、山のごちそうが出て来るようにしましょう、というのでした。そして、気づくと、新吉は、いつのまにか、もとの町の長屋に戻っていた、という、そういうストーリーです。

そういった結末も、昔話の多くの異類女房が、悲しい別れをせざるをえないのに対し、それとは異なるエンディングが用意されているのです。

 

少し気になったのは、この物語には新吉のおっ母さんは出てくるのに対し、「お父さん」の影が全く無いことです。新吉のお父さんは、新吉がそうであったように、村を捨て、行方知れずのままだったのかもしれない、などと考えてしまいます。

この物語に限らず、安房さんの物語は、どういうわけかひとり親しか登場しないお話が、案外あります。「冬吉と熊のものがたり」にもおっ母さんしか登場しませんし、「鳥にさらわれた娘」のふみは母子家庭です。「まほうをかけられた舌」「三日月村の黒猫」「熊の火」「海の口笛」は父子家庭ですし(「三日月~」では、作中、亡くなったお母さんが登場はしますが)、「きつねのゆうしょくかい」もどういうわけか、おとうさんぎつねしか出てきません。

 

この「ききょうの娘」に登場するような、すすきの模様がある赤いおわんが欲しくて、骨董市にいくたびに、それとなく探していたのですが、なかなか出会いがありませんでした。

秋草文という、日本の伝統的な文様は、すすき、ききょう、おみなえし、ふじばかま、くず、きく、などのデザインをしたものを指すそうで、確かに着物にはすすきの意匠もあるようなのですが、食器にはあてはまらないのかもしれないし、あったとしても、秋の草花と一緒の模様だったり、と、安房さんの描かれたような「すすき」の穂だけの文様は存在しないのかも、と考え込んでしまっていました。

将来、安房直子記念館などを興す夢がかなったなら、記念館の定番グッズとして、腕の確かな漆職人さんに特注した、すすきの赤いおわんなどを、作ってみたい、もちろん、これも陶芸家さんに特注した、「鶴の家」の無数の鶴が東にむかって飛んでいく青い大皿も一緒に・・・、などと、ただただ夢想していたのでした。

 

そんな矢先、このエッセイを書きながら、たわむれにネットで、すすきのおわんを検索していたら、なんと、理想に近いものをみつけてしまったのです。蓋の内側に、すすきの穂の文様があります。そして、外観は、朱い無地のシンプルなおわんです。木製で漆塗りで、プラスティックではありません。すすきの穂には、かすかに露の表現まで。なんて、嬉しいことでしょう。あんなに長いあいだ、かれこれ8年くらい、折りにふれ、探していたおわんが、あっけなくみつかってしまったのです。惜しむらくは、すすき模様のあるおわんの蓋の裏側が、朱い地ではなく、黒であることくらいでしょうか。ちょうど10碗ありますので、ライラック通りの会主催の、安房直子のお料理会に使いたいと思います。

来年の春、ご参加される方は、どうぞ、おたのしみになさっていてください。

 

碗貸し伝説についての、アイダミホコさんのブログはこちらです。↓