「火影の夢」のサフラン風味の魚のスープ!! 安房作品に登場する美味しそうなお料理の中でも、三本の指に入るほどの美味しそうな描写が、魅力的なスープです。夢の再現です。
「とりこになる」という表現がよくでてくる安房作品ですが、主人公のこっとう屋は、ストーブの火影にうかびあがる小人の女性のつくるスープの味のとりこになってしまいます。
サフラン風味の魚介のスープはすばらしい味で、小人の女性の作る小さな鍋からスプーンで掬って飲むだけでは飽き足らなくなります。そして、スープを飲む量が増えると、小人の女性の言葉が解ることが判明し、ストーブの燃料を変えることを小人の女性に頼まれ、こっとう屋は、ふしぎなスープに、ふしぎなストーブの火影に、火影に映る小人の女性に、のめりこんでゆくのです。
サフラン風味のスープは、昔、喧嘩したまま別れてしまった奥さんがお嫁に来た時に持ってきたサフランの花を、こっとう屋に思い出させます。サフランは、薬にも調味料にもなるの、と楽しそうにサフランの球根を育てていた奥さん。銀の魚をつなげた首飾りが元で、こっとう屋と奥さんは諍い、サフランの花が咲く前に、奥さんは家を出て行ってしまいます。そんな苦い過去を思い出しながら、やがて、こっとう屋は、火影の中の小人の女性を、別れた奥さんに重ねていきます。
食べ物の味のとりこになって、異界へとひきこまれてゆく作品のひとつに、「海の口笛」という作品もあります。主人公は偏屈なかけはぎ屋。「火影の夢」のこっとう屋の老人と、主人公の造形も似ています。こちらは、かけはぎをたのまれた、すばらしい青い絹のドレスの穴をふさごうと、穴を覗くと、そこからどういうわけか海の底が見え、魚が泳いでいて、偶然魚が穴から仕事場に出てきてしまい、ピチピチはねています。その魚をみたかけはぎ屋は、その魚が食べたくてたまらなくなるのです。バター焼きにして食べてみると、その魚はすばらしい味で、かけはぎ屋はふしぎなドレスの穴の中の海からとれる魚の味のとりこになってしまうのです。
食べ物を食することで、異界にひきこまれてゆくこのふたつのお話は、「火影の夢」が1975年、童話集『銀のくじゃく』に収録された書下ろし、「海の口笛」が1985年雑誌『MOE』に掲載された作品です。およそ10年ほどのタイムスパンがありますが、どちらの作品もラスト、主人公は、異界にとりこまれたまま、「こちら」の世界には戻ってきません。
「行きて帰りし物語」という言葉がありますが、良書と呼ばれる児童文学の条件のひとつとして、どんなに冒険に出ても、最後には家に帰ってくる、「行きて帰りし物語」であることが大事だと、勤務先の図書館の研修で教えられました。子どもたちに不安を与えないためには、そういう構造であることが求められるというのです。
安房作品は、その「良書」の条件を見事に裏切っており、しかし、その宙づりの結末の不安定さこそが、むしろ、わたしにとっての、たまらない魅力となっていることに、きづかされました。お行儀のよい「良書」でない、不安を誘う結末、だからこそ、安房作品は、魅力的なのだと。
「銀のくじゃく」のはたおり、「青い糸」の千代や周一、「野の音」の勇吉や少女たち、「長い灰色のスカート」の修、「鳥にさらわれた娘」のふみ、「天の鹿」のみゆき、そして、「海の口笛」とこの「火影の夢」。わたしの特に好きでたまらない安房作品は、みな、はるかな異界にとりこまれたまま、主人公は、こちらの世界には帰ってきません。
「火影の夢」のもうひとつ素敵な部分は、銀の魚をつなげたという首飾りです。私はこの作品を、小学校低学年の頃にはじめて読みましたが、美味しそうなスープに魅せられただけでなく、この銀の魚の首飾りというアイテムにも、夢中になってしまいました。そんな少女の読者も多いのではないでしょうか。
安房作品に登場する素敵なアイテムとして、少女の頃心を奪われたのは、他にも、「天の鹿」の紫水晶の首飾り、「天窓のある家」の銀色のこぶしの花影、「鳥にさらわれた娘」の表が赤と金、裏が青と緑と灰色のシギの玉でつくったお財布などなど。こちらは大人になってから読みましたが、「三日月村の黒猫」の木彫りのボタンなども。そんな少女心をくすぐるアイテムの登場も、美味しそうなお料理とともに、安房作品を形づくる魅力だと思います。